ごうけいほうもんしゃすう

とある独り者の場合

記録者:MEME

宮城県出身・在住 壇蜜と同い年
恋愛や結婚に興味のないバイセクシュアル。
戸籍と身体は♀。

 

▽この手記の用語解説について

 

 発災時、仙台市青葉区内のアパートで独り暮らしをしていた。
 自宅はびっくりするくらい何の被害もなかった。
 皿1枚割れなかった。本1冊落ちなかった。
 水道・電気・都市ガスが止まっただけだった。
 避難所に行くことはなかった。
 仕事に行っている時以外は、だいたい自宅に独りでいた。
 これはそんな、とある独り者の話。
 あんまり語られないけれど、きっと、よくある話。

 

「そんなことくらい」という言葉を頻繁に見聞きした。自分でも言っていた。自分で自分に言っていた。
「ライフラインが止まったくらい」「車流されたくらい」「そんなことくらい」「そんなことくらい」「おまえなんか被災者じゃない」「おまえなんかが被災者ヅラするな」「そんなことくらい」「そんなことくらい」
少しばかり、考えが変わってきたのは最近のことである。
あまりにも甚大な被害にばかり目を奪われがちだが、圧倒的多数の「被災者」はライフラインの停止程度の被災だったのだ。
今後また必ず起こる災害においても、きっとそれは同じだ。
その圧倒的多数の経験を伝えていくことは、だからとても重要。
ちょっとした備えで、買い物や炊き出しの列に並ぶ人が減れば、そのぶんの資源が、もっと大変な人に回ることになる。
「そんなことくらい」などと嘲っている場合ではないのだ。

 

平成23年3月11日14時46分。
仕事で仙台市内陸部のとあるビルの1階の会議室にいた。
数日前にも地震があったばかりだった。またかと思いながら、とりあえずテーブルの下にもぐる。今度のはちょっと大きいかな。チャチなテーブルと椅子しかない会議室では揺れの大きさが測りづらい。
揺れがおさまって、とりあえずみんなで外に出る。クリーム色の受水槽から水が流れ出して、駐車場に大きな水溜まりができている。あれ、そんなに揺れたのかな。あんまり感じなかったけど。
車で来ていた人がカーラジオをつける。「宮城県栗原市で震度7」。平成20年に地震で大きな被害を受けたところだ。「また栗原か、大変だな」そんなことをささやき合う。まだ他人事だった。
その日は自転車で行動していた。漕ぎながらあたりを見まわす。ガラスの割れた店。崩れたブロック塀。水道管が破裂したのか、道のまん中から水が噴き出している。コンビニエンスストアのレジに長蛇の列ができている。でもそんな「非日常」はむしろ少なくて、あとはほとんど「日常」の風景。思っていた以上に「日常」が損なわれていたことを知るのは、もう少しあとのことだ。



MEME写真20120526菖蒲田浜海水浴場

2012年5月26日 宮城県宮城郡七ヶ浜町 菖蒲田浜海水浴場。
東北最古、国内では3番目に古い宮城県内有数の海水浴場が、
発災後1年以上経ってもこんな状態だった。
4度目の夏が過ぎたいまも再開の目途は立っていない。
子供の時分は毎年ここで海水浴をしていた。冬の砂浜を歩くのも好きだった。

私は宮城県多賀城市で育った。
市域内に海はあるが、工業地帯で馴染みがなく、子供心に海といえば菖蒲田浜海水浴場のある七ヶ浜町や「みなとまつり」で盛り上がる塩竈市や日本三景で有名な松島町のものだった。小中学校でも津波を想定した防災教育を受けた記憶がない。恥ずかしながら、多賀城を津波が襲うとは思っていなかったというのが正直なところだ。11日の夜、津波の情報が少しずつ入るようになっても、海からかなり離れた実家にまで被害が及んでいるとはまったく思っていなかった。
実家が津波で浸水したことを知るのは12日の朝、避難所に身を寄せていた両親と辛うじて連絡がついたときである。

 

実家の被災を知らされたものの、当面打つ手があるわけではなかった。
発災後しばらくはガソリン不足が大問題になったが、それ以前に私は自家用車を持っていなかった。実家の車は津波にやられていた。自転車ではひとり分の水や食料を運ぶのがやっと。もし、重い荷物背負って何十キロも自転車漕いで着いたとしても、背負ってた荷物の中身を結局自分で飲み食いして帰ってくることになる。何のために行くんだという話である。
とりあえず両親に怪我はないし、水や食料の備蓄も多少はあるし、浸水を免れた実家の2階でなんとか寝泊まりできるし、来られてもむしろ邪魔だから来るなということで、当面実家のことは放置することになった。


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職場の方でもいろいろとやることがあり、そんなこんなで結局、発災後も自宅と職場の往復という「日常的な」生活をしていた。
ニュースでは、沿岸部の酷い状況が日々伝えられている。でも私が日々目にする街の風景は発災前とあまり変わらなかった。
あまり変わらないぶん、ちょっとしたことが目について、印象に残っている。
信号が停電で消えていても、車が意外とスムーズに走っている。
ガソリンスタンドには長蛇の列。ときどき小競り合いが起こっている。列にはくわえ煙草の人も。危ないだろ。
煙草といえば、煙草の自動販売機にも長蛇の列ができていた。飲み物の自動販売機も稼働しているものはあっというまに品切れになっていたけれど、最後まで売れ残っていたのは意外にも缶コーヒーだった。普段なら売れ筋商品だろうに。
コイン精米機にも長蛇の列ができていて驚いた。みんな意外と玄米を備蓄しているのだな。さすが米どころ宮城県。
私を含めマスクをしている人が多い。風邪予防になるし、スッピンや無精髭も隠せるから便利。必需品だ。
ちなみにマスクはこの後もかなり長い間活躍した。震災の年の春から夏にかけて何度も津波被災地域に足を運ぶことになったが、乾燥したヘドロが舞ってホコリっぽかったり、腐敗臭もひどかったり、ハエもやたら飛んでいたりで、マスクが手放せなかった。



写真2014年9月18日コイン精米機

2014年9月18日 仙台市宮城野区。
発災直後は大きな米袋をたずさえた人々がこの機械の前に長蛇の列をつくっていた。
コイン精米機にあんなに行列ができているのを見たのはあとにもさきにもこのときだけである。

独り暮らししていたアパートの電気と水道はかなり復旧が早くて、数日で使えるようになった。一方、都市ガスは仙台市内でも遅い方で、1カ月くらいかかった。
ガスが復旧した頃には、日常の買い物もおおむね不自由なくできるようになっていたから、いわゆる「自宅避難」の期間は1カ月くらいといえる。

 

この1カ月、いかに「電気」を活用するかがサバイバルだった。
節電節電と騒がれていたが、ガスが復旧せず、熱源といえば電気しかなかったのだから仕方ない。
カセットコンロは持っていたが、ボンベの備蓄には限りがある。店頭でも大変な品薄だったため、できるだけ温存しておきたかった。
私は電気炊飯器を持っていなかった(土鍋か圧力鍋で炊飯していた)。電気ポットも持っていなかった。電気コンロも持っていなかった。
調理に使える加熱機器といえば、オーブン機能付き電子レンジだけだった。
電気が復旧して、インターネットが使えるようになって、真っ先に調べたのは電子レンジで炊飯する方法だった。このとき見つけた料理研究家村上祥子先生の電子レンジ炊飯テクニックには本当に助けられた。実は今でも日常の炊飯はこのテクニックで行っている。村上祥子先生には足を向けて寝られない。
湯を沸かすのも、おかずを作るのも全部電子レンジ。電子レンジひとつでこれらすべてを行うのでやたら時間がかかるしとても面倒くさかった。
ちなみに参考まで、飲食物の備蓄で非常に役立ったものをご紹介しておく。

【野菜ジュース】
これは超オススメである。被災時はどうしても野菜不足になりがちだったが、なんの手間もなく美味しく栄養&水分補給できる野菜ジュースには本当に助けられた。医療機関も大変なことになっている時に風邪など引くわけにはいかないと思い、「風邪予防風邪予防」と念じながら野菜ジュースでビタミン剤を飲み下していた。実際風邪は引かなかった。もっともそれは避難所のような人ごみに行くことがほとんどなかったからかもしれない。

【スキムミルク】
これも超オススメである。牛乳は栄養満点だが冷蔵設備が使えないとすぐ傷んでしまう。スキムミルクは常温で長期保存できるのでとても便利である。水や湯に溶いて飲むのはもちろん、料理に混ぜ込むなど活用の幅は広い。

【焼海苔・乾燥わかめ】
これも常温長期保存可能で栄養価が高いので超オススメである。カップ麺やインスタント味噌汁に入れたり、そのまま食べたりしていた。ちなみに宮城県は海苔の養殖が盛んな土地柄である。私も裕福な生まれではないのに海苔は高級なものを食べていた。安い海苔しか食べたことのない方にはぜひ宮城県産の高級海苔を召し上がっていただきたい。

【飴・ガム】
思うように水分もとれない状況で飴やガムは重宝した。シュガーレスのガムは歯磨き代わりにもなった。たまたま家に土産物の飴やガムがたくさんあったので職場で配ったら喜ばれた。


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ガスが復旧するまで、1カ月風呂に入らなかった。
数少ない銭湯には長蛇の列。何時間も並んで入れるのが10分、15分と聞くと、とても行く気にはならなかった。
プロパンガスやオール電化の家で風呂を借りるという選択肢もあったが、そこまでする気にもならなかった。
洗面器1杯程度の湯を沸かして頭だけ洗う、蒸しタオルをつくって身体を拭くなど、みんないろいろと工夫していたようだが、私はそんな準備も面倒だったので週1回水シャワーを浴びていた。
毎回心臓が止まるかと思った。真夏ならまだしも、宮城県ではまだ雪の降る時期の話である。独り暮らしでこんなことをしていて、それこそ心臓マヒで倒れでもしたらどうするつもりだったのか。真似をしてはいけない。
こんなことをやっているうちに身体に冷えが溜まっていたのか、4月に震災後初の生理が来たときは立ち上がれないくらい腹が痛かった。普段生理痛は軽い方なのだが。しかし発災直後の一番大変な時期に生理にならなかったのは幸運だったと思う。
そういえばこのころ、1回だけだがオネショしたのだった。おそらく幼稚園以来である。水シャワーのせいか、あるいは知らない間にストレスが溜まっていたのかもしれない。独り暮らしで本当に良かった。これが避難所だったりしたら居たたまれなくなっていただろう。

 

水の復旧は早かったので、給水車の列には並ばずにすんだ。
トイレも普通に流していた。しかし「浄化センターが大変なことになっているので、できるだけ流さないように」という情報を聞いてから、トイレットペーパーはゴミに出すようにした(もっとも、ゴミ処理場も大変なことになっているという話だったので、ゴミも小出しにするようにしていたのだが)。流す回数も1日1回にした。独り暮らしなので気にならなかった。ただ、便器のフタは常に上げっぱなしにしていたのを、臭い防止のため下ろすようになった。便器のフタは何のためにあるのか、いらないんじゃないのかと思っていたが、こういう時に役に立つんだなあと思った。
ちなみに、この習慣は1年くらいでなんとなくやめてしまった。なんとなく自分で勝手に「もういいかな」と決め込んでしまっていたのだ。

そして震災から3年以上経った平成26年6月30日、河北新報朝刊にこんな記事が載っているのを目にした。

 「仮施設下水処理綱渡り 仙台・復旧中の南蒲生浄化センター」

仙台市内の下水の7割を担う南蒲生浄化センターが、被災から3年あまり仮施設でフル稼働を続けるも、震災前の4分の3となった処理能力での綱渡り状態が継続しており、水やトイレットペーパーの使用節制を呼びかけている、という内容だった。
まだ何も元通りになどなっていなかったのだということを思い知らされた。


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私は、独り者にしては備えがあった方だと思う。
周囲の独り者からは「自炊していなかったため食料の備蓄がなく発災直後から炊き出しに並んだ」とか「クレジットカードでばかり買い物をしていたため現金を50円しか持っておらず買い物に苦労した」という話も聞いた。ラジオや懐中電灯を持っていなかった人も多かったのではないか。独り者は意外と災害弱者である。しかし独り者向けの防災情報は意外と少ない。これはけっこう危険なことである。

 

私には結婚願望がない。「結婚願望がない」というのもある意味セクシュアル・マイノリティではあるが、これは同性愛/両性愛(汎性愛)とはまた別の話である。現代日本の法制度では同性同士の婚姻が不可能だからとかそういうことではない。相手の性別に関わらず結婚したいとは思わないのだ。今のところ子供を持つ予定もない。要するに新しい家族をつくるつもりがないということである。
今現在の「独り者状態」が一時的なものではなく一生続くと思っているからこそ、それなりの備えをしていたという面はあると思う。
セクマイが意外なところで役に立ったものである。こんな私の体験談が全国の独り者仲間の助けに少しでもなれば幸いである。


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昭和53年(1978年)6月12日17時14分、宮城県沖地震が発生した。
私が生まれる前の話だが、周りの大人、家族や学校の先生から当時の経験をたびたび聞かされた。「運動部の指導中に校庭が地割れして」「当時小学生だったんだけど道端で動けなくなって怖くて」「ブロック塀がいっぱい倒れて」「家の湯船に貯めていた水が半分以上こぼれて」「ガスが止まったから七輪引っ張り出してきて煮炊きして」ちょっとした話ばかりだが、なんとなく覚えている。こんなちょっとした体験談というのがけっこう大事だったんだな、と今になって思う。

そういえば中学の理科の先生が「宮城県沖地震のあった晩は停電で星が綺麗に見えた」と言っていたのだった。
発災翌日の晩だったか、その言葉を思い出して夜空を見上げた。
少し曇っていたからか思ったほどではなかったけれど、それでもいつもよりたくさんの星が見えて、なんだかちょっとほっとした。
どんな情報が役に立つか分からないものだ。

 

2014年9月寄稿


■用語について


レインボーアーカイブ東北の「手記」には、耳慣れないセクシュアリティに関する用語がたくさん出てきます。下記のページにて、それぞれのおおまかな意味合いを解説していますので、ご覧ください。

 

レインボーアーカイブ東北による用語解説

さらに詳しい情報については、「性と人権ネットワーク ESTO」ウェブサイトをはじめとするセクシュアリティ関連サイトや書籍などをご参照ください。

■レインボーアーカイブ東北について
レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーなど、多様な性の当事者たちの生の声を集積・記録・発信する団体です。
可視化されていない地方の当事者の存在を広くアピールすることで、違いを認めあい尊重しあう、より生きやすい社会をめざします。
宮城県仙台市を拠点に活動している4団体「東北HIVコミュニケーションズ」「やろっこ」「Anego」「♀×♀お茶っこ飲み会・仙台」が中心となって2013年6月に設立されました。

連絡先:ochakkonomi@gmail.com (♀×♀お茶っこ飲み会・仙台)

※レインボー(虹)は多様な性のあり方の象徴として世界各地で用いられています。

 

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