NPO法人 創る村は、2011年3月、新たに宅老所兼デイサービス施設『老莱子の家』を建設しましたが、開所日目前に地震と津波による甚大な被害を受けました。以下の写真は、被災した施設とその周囲の、震災直後とその後の復興の様子を記録したものです。
■「創る村」本部の屋上から
(上)2011年3月12日/(下)2011年10月2日 東松島市新東名
JR仙石線を東方に望む。地平線やや左手、松林の彼方が野蒜海岸、右手が宮戸島。その手前は、浸水し入り江のようになった水田。時々ボランティアが線路の草刈りに入っていた。
■「老莱子の家」1階リビング
(上)2011年3月13日/(下)2011年10月2日 東松島市新東名
落成式直後に被災した「創る村」運営の複合施設「老莱子の家」。1メートルほどかさ上げして建設したため2階は無事だった。水没したピアノは雨水で流すなどの処置で奇跡的に甦った。
■線路を埋め尽くす車両
(上)2011年3月18日/(下)2011年10月2日 東松島市大塚長石
JR仙石線東名駅付近。地震発生直後、東松島一帯では避難車両が大渋滞を起こしていた。津波はまさにそこを直撃したのだった。
■JR仙石線東名駅
(上)2011年3月18日/(下)2011年10月2日 東松島市大塚北林下
津波で枕木が浮き、レールが柵状に立って踏切を塞いでしまった。それを切断し、南北に道を通した。現在、この東名駅は、約500メートル内陸部への移転が確定している。
■線路が撤去された仙石線
(上)2011年3月19日/(下)2011年10月2日 東松島市大塚長石
流されてきた家屋が衝突したあたりから東名駅方面に、めくれて柵状になった線路が続いていた。その撤去後は、架線柱の連なりだけが、かつて鉄道があったことを伝えている。
■「創る村」の前の松島湾
(上)2011年3月21日/(下)2011年10月2日 東松島市大塚長石
震災後80センチメートルほど地盤沈下したこの海は、名高いアサリの潮干狩り場だった。いま、アマモが繁りはじめ、タツノオトシゴやウミホタルも戻りつつある。海が再び生命を育もうとしている。
■「老莱子の家」正面から西側を望む
(上)2011年3月21日/(下)2011年10月2日 東松島市新東名
震災前、敷地内の見渡せる範囲には存在していなかった大きな岩が、水が引いてみると、いくつもこの場所に現れていた。あらためて、津波の威力を思い知る出来事だった。
■「老莱子の家」正面玄関脇にて
(上)2011年3月21日/(下)2011年10月2日 東松島市新東名
松島湾側にあった森が流失し、玄関先まで海になった。半年後に浸水・地盤沈下エリアを重機で埋め立てたが、工事が済むまでの間、満潮時には建物から出られない日々が続いた。
■水没した駐車場
(上)2011年3月21日/(下)2011年10月2日 東松島市新東名
「老莱子の家」駐車場エリアは、堤防の決壊により一帯が水没。その後埋め立てられたが、半年経った時点でも、大潮の満潮時には、海水が土嚢の仮堤防を越えて流入していた。
■「老莱子の家」東側スロープ
(上)2011年3月22日/(下)2011年10月2日 東松島市新東名
玄関スロープのコンクリートを入れようとした日に震災が起きた。スロープを歩くと緩くなった足元がグズグズと崩れていく。正面のプレハブ小屋は400メートルぐらい流されてきたと思われる。
■決壊した「創る村」前の堤防
(上)2011年3月29日/(下)2011年10月2日 東松島市新東名
津波は右手の陸側から襲来し、堤防は松島湾側に倒れた。基礎部分の土地がすっかりえぐられていることがわかる。現在、陸側は埋め立てられたが、倒れた堤防は海中に沈んだまま。
■再建したスロープと甦ったケヤキ
(上)2011年3月31日/(下)2011年10月2日 東松島市新東名
「老莱子の家」東側入口。この手造りスロープの再建には、建物1階に入り込んだヘドロも運び出して基礎に埋め込み使用した。車両が衝突し曲がったケヤキの樹は、その後復活した。
■「老莱子の家」東側の道
(上)2011年3月31日/(下)2011年10月2日 東松島市新東名
「老莱子の家」2階は無事だったため、地区の避難所的役割を担った。隣家の方も避難されていたので、その家の塀の下、黄色い桶に溜めている雨水を利用させてもらっていた。