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山形にて 東日本大震災当日から4月上旬までの記録

東日本大震災当時、山形県村山市で中学校の教員をしていた東海林恵史(とうかいりん・けいし)さんによる、発災から4月上旬にかけての記録です。
(以下、記録・文:東海林恵史)

地震発生時刻 2011年3月11日(金)14時46分   M9.0    晴れ

勤務地の学校職員室(山形県村山市大字稲下)に居た時、ズンズンズンガダガダッと突然上下の揺れが来たので、テレビをONにするやいなや、斜め上に突き上げる激しい揺れに、左右の揺れが加わった。身体が揺さぶられ、立っていられない! 周囲はダダダダと激しい音を立て、校舎がミシッミシッと大きく揺らいでいる。TVでは地震について臨時放送を始めたが、まともに見られない状況だ。机から物が落ち始め、遠くから悲鳴が聞こえた。ただごとではない!

足下をふらつかせながら校内緊急放送を入れようとしたが、さらに揺れが激しくなり、マイクスイッチを押せる状態ではなかった。普通ならこの辺で揺れが弱くなるのだが、一向に静まる気配はない。校舎は震度7まで耐震性があるものの、蛍光管の落下や窓ガラスの破損を覚悟した。

通常の放送機器から放送できなかったので、教頭が非常用放送機器を使い始めるや否や、大きな斜め横揺れが益々早く激しくなり、停電になった。室内は急に薄暗くなり、不安を増した。半端な揺れではない!!と思った所に、ユッサユッサとさらに大きな斜め縦揺れが襲い始めた。身体が投げ出されないように、上下に動く机へしがみつくだけだった。この時、学校周辺の木造家屋が倒壊しているのではと思った。地震は、ガゴガガゴガガゴガと鉄筋コンクリート3階建ての校舎を大きくきしませながら、上下左右に激しく揺さぶり、机上の物を落としながら時折強くなりつつ、長く長く長く揺れが続いた。本当に沈静化しなかった。座り込んで動く机にしがみついていると、ようやく揺れが小さくなった。

過去の新潟地震、十勝沖地震、宮城沖地震、新潟中越地震、さらには岩手宮城内陸地震とは違い、それよりもかなり強烈な地震であることは身体がよくわかっている。震源地は、初期微動の短さと大きさから近辺と推測し、かなりの被害が出ていると思った。ラジオのスイッチをすぐにON! 宮城県沖が震源地と情報を伝えていた。やはり震源地付近では、かなりの被害が出ているらしい。自宅のある山形県尾花沢市で震度5強。幸いに学校周囲の家は倒壊していなかった。
校内対策本部を職員室に設置、生徒を各教室中央に集めさせた。連絡は伝令とハンドマイクである。揺れが収まっても、ラジオからはチャランチャラ~ン♪と緊急地震速報が何度も鳴り、間を置かず大きな余震が何回も続き、校舎がかなり揺れる。

携帯ワンセグTVを見せてもらうと、千葉県市原市の石油コンビナートが大火災、お台場でビル建物火災が発生している。宮城県沖が震源地なのに、なぜ関東地方が被害を受けているのか疑問だった。この時点で、東北地方太平洋側沿岸の市町村全部が、津波で甚大な被害を受けているとは知る由もなかった。頼みのラジオからは、10mを超す津波警報と津波被害を報じている。信じられない。
後日わかったことだが、東北地方から関東地方にかけて震源地が3カ所あり、これが大きく揺れた時間を約3分と長くし、被害を拡大した。

消防団が巡回に来たので、周辺の道路状況や橋の様子を聞くと異常なしだった。心強い味方だ。通学路の安全を確認したので、授業を切り上げ生徒を帰す。念のため職員巡回もした。その間にも大きな余震が続き、校舎がぐらぐら揺れる。

電話は停電のため使えないので、情報が得られない。当校には非常時用電話があるものの、相手方の電話が使えない。NHKラジオは震源地に近い仙台放送局からの中継となり、余震でスタジオが激しく揺れているとのアナウンスでは、約1秒後にこちらも大きく揺れる。ラジオは津波で広範囲に被害が出た事を伝えているが、具体的な様子が伝わらない。

太陽が沈みかけると、雪で青白い街並みがしだいに黒くなっていく。職員室に蝋燭(ろうそく)が灯った。臨時避難場所になっている本校に誰も来なかったので、校長より帰宅許可が出た。停電のため帰宅途中の街並みは暗黒で、自動車ライトのみの明かりである。光の帯だけが流れている。途中、村山市を走る国道13号で、北上する東京発横手行きの高速バスを見かけた。東北道が使えないためか。いつもより交通量が多い感じがする。
大きなスーパーと道の駅には、パトカーが赤色回転灯を点けて停車し、雪の壁に赤く反射させていた。移動中、車載の無線機を灯すが、太平洋沿岸部のアマチュア無線、防災無線から応答なし。この時点で車のガソリンの量が3分の2あり、数日間助かった。

 

地震の翌日 3月12日(土)

寒い夜、自宅で毛布にくるまり、断水と停電のまま蝋燭の灯りで3月12日の朝を迎えるが、何度も大きな余震のため冷やっとした。夜のラジオ報道では赤々と燃える気仙沼市街地の被災状況を何度もくり返していた。また、仙台市若林区では津波で約300人の被害者が出ているとの情報が入った。被災地から被害を訴える正確な術は皆無なので、不確かな情報も出てきた。

明るくなるにつれて、太平洋沿岸の被害が大きいことを伝えている。ラジオ以外の情報はなく、具体的な地震被害と津波被害の様子がどうなっているのかわからなかった。壊滅した市町村もあるようだが、全体がどうなっているのかがわからない。相変わらず太平洋沿岸部のアマチュア無線、防災無線と繋がらない。後日わかったことだが、太平洋沿いの市町村は壊滅していたので電波を出せる訳がなかった。

12日朝、東北6県すべて停電になっているにもかかわらず、朝刊が届いた。4面しかないが、1面の大写真を見て驚いた! 津波で瓦礫となった沿岸部の航空写真が掲載されている。家がなくなり、水浸しの中に木片や壊れた船が見渡す限り埋もれている。東北地方沿岸すべてそうなっているのか?
我が家は黒電話のため通話可能だが、ほとんどの相手方は通話不能のため、ベルが鳴るのは、遠方の方のみだった。

午前中、山形市に用事があったので出かけたら、交通量はほとんど無く、しかも信号はほとんど消えていた。そのためスイスイと行くことができた。12日昼になっても停電と断水が続く。それがいつまで続くかわからないので、貴重な汲み置き水は使わないで、鍋で雪を溶かした水で顔を洗った。コンビニは閉店が多く、開いている所は人数制限をしながら入れて、電卓でレジをしていた。

13時頃電気が通じた瞬間、テレビを見てただ事ではないことを知った。大津波で街が飲み込まれていく録画や、その後の破壊された街が中継されている。東北地方の太平洋沿岸部が壊滅し、安否不明数万人との情報。ふと女川原子力発電所が心配になった。本当に悲惨な場面は、TVでは放映していないことを後日知った。

夕方、仙台にいる大学生の息子が友人の車で帰って来た。話を聞くと、マンションで友人数人とゴロゴロしていたら急に大きく揺れ、外へ逃げ出したそうだ。近くで火事が発生し、119番通報しても繋がらなかったという。近くの避難所は満杯で、受け入れができないと言われた。街の様子を見に行ったら、多くの看板は落ち、仙台駅前はごった返しの状態で駅に入れてもらえなかったという。

 

3月13日(日)

3月13日、寒河江市幸生地区の伝統行事「病送り」の日である。途中、ペットボトルに水を補給して出かけた。「地震も雪も送ッテヤルゾ-」の短冊を持った子供の写真を撮った所、地元の新聞に掲載された。


この日の昼も水道の復旧はならず、給水車に頼った。尾花沢市の水道は夕方に復旧した。電気、水道が復旧したものの、仙台方面の石油コンビナートがだめになり、世間ではガソリン不足が騒がれている。事実、3月下旬まで深刻なガソリン不足が続くことになった。その間、営業をしているガソリンスタンドを探すのが一苦労である。さらに、隣の宮城県からもガソリンを求めて、東根市・天童市のガソリンスタンドへ長蛇の列である。

次のようなことがあった。それは極秘情報として、明日某ガソリンスタンドで7時から給油できるとのこと。それならば、5時30分に並べば大丈夫だろうと、吹雪の中しかも暗いうち行くと、すでに車の行列が4km続いていた! スタンド前には車中泊も出現している。どこが極秘情報?? このように何回もガソリンを求めて長い行列に、しかも吹雪の真っ直中に3、4時間も待機し、得られたのは1リットル160円で1000円分とか2000円分である。なぜなら、東北自動車道、奥羽線、東北新幹線、東北本線、仙山線、米坂線等は不通になり、陸の孤島状態ではガソリン搬入が難しくなった。このようにガソリンを手に入れるため、寒い吹雪の中を合計20時間位並んだろうか。某の業者や気合いの入った個人は、地震で影響を受けていない新潟方面へドラム缶持参でガソリンを購入しに行った。

 

3月17日(木)

3月17日、午前中からかなりの降雪である。昼には職場駐車場から普通車が出られなくなり、除雪機が臨時に出動した。ハヤサカ先生の車が雪に閉じ込められ脱出不能、スコップで掘り起こした。

この日、公立高校の合格発表日なので、本来なら多くの職員がいるはず。ところがガソリン不足で出勤できないのが実情である。高校側も配慮をして、電話で本人だと確認できれば合否を知らせるとの連絡が入った。

さて、次男の大学入学に伴い、大手家電メーカーから家電製品を購入したら、震災で搬入車がないため今回は各自で運んでくれとのことだった。洗濯機、冷蔵庫等々、何回も分けてアパートまで搬入した。これは運が良い方で、電化製品は在庫限りの物が多く、入荷予定がないという。最後の展示品を購入した。また、大学入学式が延期になる通知が届いた。

ようやく3月下旬になると、新潟経由でタンクローリー車が入り、国道13号を走行するのを多く見かけるようになった。タンクローリー車を見ると安堵の感があった。だが、不足はガソリンだけでなかった。食料品も品薄の状態が長く続いた。特に非常食のカップメン、パン類は入荷なし。牛乳もなし。野菜類も僅かの状態である。スーパーの棚はガラガラの状態だった。

仙台空港が津波で壊滅的な被害を受けたため、山形空港が宮城・山形両県の表玄関となり、札幌、東京、名古屋、大阪とかなりの便数である。職場上空が航空機の旋回待機の場所となり凄かった。また、津波災害応援に来た防災ヘリの前線基地にもなり、周波数は山形消防3chが使用されていた。さらに米軍のC130輸送機も飛来した。本来ならこの時、全国から集まった防災ヘリの写真撮影に行くのだが、ガソリン不足でじっとしているしかなかった。ちなみに、JRで山形駅から東京駅へ行くのに東北本線は不通のため、山形駅→新庄駅→陸羽西線余目駅→羽越線にて新潟駅→東京駅と約8時間である。奥羽線一部開通は3月26日頃であった。

 

原発事故のこと

心配した女川原子力発電所の被害は軽微だが、東京電力の福島原子力発電所が爆発し、炉心融解と思われる大事故を起こした。放射性物質を吹き出したため、風向きにより3月14日には山形大学の工学部の某教授が、県下生徒全員早退の勧告を突然山形県教育委員会に出したものだから、県下パニックになりながらの下校である。次の日は、騒がせてしまいごめんなさいのお便り配布である。怪しげな、人騒がせの教授と思われたが、彼の判断は正しかった。
福島県等の野菜から放射性物質が基準以上検出されたことで出荷停止、また牛乳も同様で毎日が廃棄処分となった。さらに原子力発電所半径20km以内の住民は避難指示である。今度は東京都の浄水場でも放射性物質が検出し、乳幼児へ水を飲ませるな、の指示が出た。いよいよ私が持っている放射線測定器の出番である。

3月31日、IAEAが原子力発電所から北西40kmに位置する福島県飯館村にも避難指示を出すよう求めた。福島県が無くなるのでは? 原発近辺の市町村は隣県へ避難した。隣県では公共の建物が避難所となり、山形大学入学式会場の県体育館も例外ではなかった。そのため大学入学式中止の通知が入った。後日学部毎に顔合わせをやるとのこと。

4月に入ると、仏蘭西大統領や米国の放射能専門部隊が来日した。時を同じくして、炉心から液体が海水に流れ出る重大な事故が発覚したにもかかわらず、放射能汚染水は海水で攪拌され濃度が薄まり安全であるという政府の発表である。政府発表には、どうもウソが混じっているようだ。濃い薄いの問題ではなく、放射能が検出されること事態いけない事と思う。驚くことに4月4日には、施設内に溜まった放射能汚染水を海に廃棄した。4月5日に茨城県の漁協が集まり協議した。それはコウナゴから基準値を超える放射性物質が検出されたからである。ロシアから、汚染水を海に廃棄するなと抗議が来た。風評被害で山形の野菜もとばっちりを被った。知人の自衛隊員は福島第一原発の処理に決死の覚悟で当たっているとのこと。

 

東日本大震災前

・東日本震災の1年前、仙台のバスに乗ったら中吊り広告に混じり、地震に備えようの訴えをした貼り紙を見た。かなりの確率で地震が発生するぞという内容だった。

・東日本震災前、息子が通っていた仙台市内にある大学では、学生に防災手帳を配り今後起こるであろう地震などに意識を高めていた。また、その大学では地震などの災害に備え、給水タンクを建設し2011年の年始めごろ完成したという。地震発生後、断水地域の住民にも水を供給した。

・石巻赤十字病院では、かなりの確率で発生する地震に備え、2010年に震度6強の想定で総合訓練をしていた。

 

【関連記事】
伝声管 01 震災後の記録 <岩手>
伝声管 02 震災後の記録 <宮城>
伝声管 03 震災後の記録 <福島>

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