ごうけいほうもんしゃすう

若者たちから届けられた手記 01

今だから語れる震災体験談

東北にゆかりのある大学生・留学生たちが中心となり、東日本大震災の体験談を投稿・閲覧できるウェブサイトを運営してきた学生団体「Project San-Eleven」。彼ら/彼女らのもとに、当時10代~20代だった方々から2011311日の記憶を綴った手記が寄せられました。日本や世界各地から届けられた50本の投稿のうち、ここでは公開許可を得られた34本を掲載しています。
自分に何ができるのかと悩みこれまで震災について語ることをためらってきた若者、忘れないでほしいとの思いから辛さを忍んで記してくれた人。胸の内に抱えてきた感情や記憶が、ありのままに書き連ねられた体験談です。

これらの手記は20204月~12月の間に寄せられました。地名の表記は震災当時の居住地です。

 

宮城県大崎市
自分は宮城県の大崎市っていう、県北の内陸部の街で被災した。
自分の街は田んぼを埋め立てた上につくられたようなところで、その関係もあって地盤がとても緩い街だった。その影響で震災発生時の揺れはとても激しく、揺れが収まった後に学校を出たら、あたり一面地下から泥水が湧き出していて異様な光景だったことを今でも覚えている。
自分の街で特に被害がひどかったのが液状化で、震災の2~3年後の時点ではまだ道路のひび割れがそこら中に残っていた。ひび割れによる地面の起伏があちこちにあったため、自転車で少しスピードを出すとすぐにカゴの中の荷物が飛び出した。
今ではだいぶ復興が進んだが、地面のひび割れ部分に流し込まれた新しいアスファルトを見るとまだ当時の傷跡を感じることが出来る。


東京都

当時私は都内の中学校に電車で1時間かけて通っていました。その日はたまたま用事で近くに来ていた母が迎えに来てくれたものの、電車はすべてストップ。歩いて帰ることになりました。
状況が一切分からなかったので、手持ちのラジオを買って聞きながら歩きました。そこで初めて「大変なことが起きているらしい」とわかりました。歩いている途中で外壁が崩れたビルを見かけて、だんだんと実感が湧いてきたという感じでした。
夕方から歩き始めたものの、夜になるとどんどん道が混み合ってきて、大きな駅の近くなんかは文字通り人が溢れていました。震災のテレビで帰宅困難者の様子が流れる度に、自分もあの群衆の一人だったんだと思い出します。

途中コンビニで水やお菓子を買ったのですが、そこで携帯電話の充電をさせてくれたのを覚えています。あれはありがたかった。電話は一切通じませんでしたが、メールはなんとか届いていたから。充電を待つ人達は皆一様に疲れ切った顔をしていて、それでもある程度まで充電できたら数少ない充電ケーブルを他の人に譲っていました。今思い返しても不思議な空気が流れていたと思います。

そうしてようやくいつも使う乗換駅にたどり着きました。夜の10時か11時ごろだったでしょうか。いつもなら電車で20分の道のりが、休憩しつつですが6時間ほどかかっていました。
かろうじて営業していたファミレスで食事をさせてもらい、徹夜で歩くことも覚悟していたときです。店内にいた若い男性グループの話し声が聞こえてきました。「〇〇線が運行再開するらしい」当時の私はよく知りませんでしたが、電話は通じなくてもSNSは動いていたようなのです。SNSで発信される情報を語るお兄さんたちに着いていく形で私と母も店を出て、駅に戻りました。そうして電車に乗って帰宅することができたわけですが、電車もゆっくりの運転でしたから、実際家につく頃には深夜の1時か2時くらいだったかと思います。
疲れ切ってはいましたが、家があんなに暖かく、安心する場所だと感じたことはありませんでした。
後日談ではありますが、この2年後に修学旅行で岩手に行くことになります。
震災時に救援拠点となった遠野で民泊をして、当時の状況を地元の方にお話していただきました。
大変だったこと、皆で協力して頑張ったこと、その一方で地元の人の記憶の風化が問題になっていることなど、震災直後とも言える時期に伺えたのは本当に貴重な経験だったと思います。


宮城県仙台市若林区南小泉

地震が起きたのは、総合の授業中のことだった。
机の上のものが床に散乱する音、本棚が落下する音、誰かの叫び声、そして地響きなど色々な音や衝撃が広がっていた。雪の降る寒さが厳しい校庭に避難し、親の迎えを待った。正直、当時小学4年生だった私は、「ちょっと大きな地震が来ただけだ」「大きな揺れはぐらら(地震体験車)で経験したことあるし大丈夫でしょ」とたかを括っていた。「今日の英会話は休みかな?」などと呑気に考えていた。当時の私は、地震の揺れ自体には地震体験車などで慣れていたが、地震が何を引き起こすのかまで理解できていなかったのだ。
帰り道、歩き慣れた通学路は、ブロック塀が倒壊していたり、地面にヒビが入ったりと景色が一変していた。家に帰ると、色々な家具が倒れていて、ベッドの上にタンスが倒れていた。「もし寝ている時だったら」と考えた途端、急にこの地震が恐ろしいものであったのだと認識した。発電装置を利用して、テレビをつけると、自分が今いるところから10キロ弱離れたところには津波が来ていることがわかった。また、翌日の新聞には、一面が火の海になっている写真が大きく載っていた。地震でこんなことが起こるなんて、という強い衝撃を受けたのを覚えている。地震から何週間か経過した時に、少し海の方面に行くと、人が乗車中に流されて亡くなったと思われる車がたくさんあったのが忘れられない。地震が起こってからしばらく経ってからの方が、地震や原発事故、津波の恐ろしさを実感することが多かったように思う。
もし、地震が起こったあの瞬間に、今の私がいたとしたら、これから起こることを想定して適切な行動を取ることができるだろうか。日頃から地震に対する物心両面の備えができていれば、なんとか正しい行動ができると思う。多くの人が物心両面の備えをするために今の私にできることは、地震から10年経過した今だからこそ、地震を経験した生の声を伝えることで、「地震は揺れだけではなく、その後に起こることも含めて怖いのだ。」と再認識させることだと思う。今回の体験談がいつかの誰かの役に立つことを願いたい。


フランス France

I was in France for a short exchange during that time and I remember that they constantly showed the news (with videos of the tsunami and the nuclear catastrophe) on the TV. I couldn’t understand but it looked horrible. There were a lot of aid organizations raising money for Japan!
私はその時、短期の交換留学でフランスにいて、テレビで(津波や原発被害の動画を含む)ニュースが度々放送されていたのを覚えています。内容はよく理解できませんでしたが、ニュースはとても恐ろしく見えました。当時は日本のために支援金を集めるたくさんの援助団体がありました!(日本語訳)


宮城県仙台市宮城野区岩切
地震のときね、私、友達と下校中で細い路地を歩いてたら「なんか変な音がする」と思った途端に揺れだして目の前の家が倒れて来て車が潰れて、「お母さんは大丈夫かな、妹は無事かな、もうみんなと会えないのかな」って思ってすごく怖かった。その日の夜は家の中も上靴で過ごして揺れるたびに外に出て全然眠れなかった。でもその夜の星がとても綺麗だったことは今でもよく覚えてる。
地震のときは郊外に住んでたから電気とか1週間以上復旧しなくて、親戚の家にお風呂を借りに行ったらそこはもう電気もついてて、水もあって、暖かい部屋で普通の生活をしててうちは大変なのに……って悲しくなった。その時初めてTVをみて自分の周りで起こってた出来事を知って呆然とした。
スーパーの行列に並んだり、避難所に物資貰いに行ったりする生活が続いてずっとこのままなのかなって不安になってた。
今でも地震とか津波の映像を見ると涙が出てきて止まらなくなって見られません。


宮城県仙台市青葉区
2011年3月11日 その日は小学校にいました。 5時間目の授業中だったような気がします。
震災の前には余震が続いてたため、地震が起きた瞬間にみんなが机の下に潜りました。
隣の子と怖いね、なんて小声で話したり。男子はこっそりジャンケンしてる人もいたりして。
私達はまだ事態の深刻さを知りませんでした。
地震が収まって校庭へ避難した後は、保護者が迎えに来るのを待って。私はお母さんがすぐ来てくれました。
3月なのに雪が降る中、上靴で家に帰りました。帰る途中のコンビニが人で溢れていた。
家に帰ると祖父母が迎え入れてくれて、父も無事に帰ってきて。
幸いにも我が家は水道だけは通ってました。電気は止まっていたのでテレビも電気もつかないので、真っ暗になったらやることがなくて18時くらいには寝て。
昼は物置にあった七輪を使ってヒーターの代わりにしたりして、電気の復旧を待ちました。
当時はガラケーでワンセグ放送が見れました。 でもあまりにも画面が小さくて現状がわからなくて。
震災から3日後。電気が通ってテレビがつくと、想像もしなかった世界になっていました。(え?どここれ……?)見た当時はそう思いました。自分たちの住む県が、東北がこんな事になるなんて思っていませんでした。テレビをつけてしばらく家族のみんなは絶句でした。
その後は原発の事故の報道が多くなり、仙台にももう住めないかもしれないと両親が話しているのを聞いて嫌だと泣いたり、近所のスーパーが1人10点までしか買えなかったり……断片的な記憶しかありません。
東日本大震災は1000年に一度とまで言われる大災害でした。私は宮城県に住んでいましたが電気が止まったことくらいでほとんど被害はありませんでした。
それでも忘れられないし忘れてはいけないことだと改めて思っています。あの日からもうすぐで10年。10年という日々は長くも短くて、未だに記憶にあるくらい大きな出来事でした。 経験していない人にも、東日本大震災を忘れないでほしいです。


アルゼンチン
当時小学6年生だった自分はアルゼンチンに住んでいた。
朝起きたら両親が「大変なことになった」と言い合いながらテレビにかじりついており、つられて見てみるとそこには爆発する福島第一原発の映像が繰り返し流されていた。
日本で大規模な地震、津波があったことは海外でもほとんどの放送局が報道していて、地球の裏側に住んでいた自分も当時の様子をリアルタイムで追うことができた。
インターナショナル校に通っていた自分はその日学校に行くのが気まずかったが、意外なことに先生や友達はいつも通りに接してくれた。今思えば大人の先生方は自分に気を遣ってくれていたのかもしれない。
その後、日を追うにつれブエノスアイレスでも震災のチャリティーイベントなどが開かれるようになり、復興への支援の広がりを感じた。


宮城県仙台市若林区蒲町
当日から数日間は、通ってた小学校に避難してたんだけど、夜になって外が真っ暗なはずなのに明るいものが見えて「何か燃えてる……海の方かな」って家族と話してたんだよね。
次の日、廊下に新聞が貼り出されて沿岸部がすごい被害を受けてることとか気仙沼が燃えてたこととかを初めて知って呆然とした覚えがある。

あと校舎の方なんだけど、うちの小学校、全壊認定されちゃったから使えなくなったんだよね。
で、近所の中学校の体育館を仕切って教室にしてたの。最初は仕切りもなくて、他学年の様子が全部見える感じだったかな。しばらくして段ボールで仕切りが出来て、ちょっとだけマシにはなったんだけど。
もともと体育館だからエアコンなくて蒸し風呂みたいに暑かったし、午後になると西日がさしてきて眩しくて黒板が見えなかった。でも自分より下の学年もおんなじ環境だから、勉強できてるってだけでも感謝しなくちゃ、って。6年だったしね。

夏頃にやっと仮設が出来て、できたての校舎に物を運んだりとかを生徒みんなでやったこともあった気がする。図書室の本とか、そういった実技の物品とか。旧校舎が壊れてるからそこに体育館のマット敷いて、通っても危なくないようにして、教師と6年主体で運び出してた。

たった数カ月しか経ってないのに校舎は全然変わっちゃってて、懐かしさってよりかは不思議な感じがしたかも。一階とか砂が入り込んでて、ガラスとかもあるかもってことで外靴で入ったから余計にそう思ったのかな。

私たちは仮設で卒業したんだけど、仮設は意外に快適だったよ。体育館と比べてたからかもだけど(笑)。
エアコンから霜が降ってきたりとか、ちょっと音聞こえやすいから音楽の授業とか難しかったりとかいうことはあったけど。

卒業してから新校舎が建って、そこにも卒業生として物品の運搬に行ったよ〜。旧校舎は春休みのうちに取り壊されちゃって、寂しさは確かにあったかも。
新しい学校はすごく綺麗だけど、まあ私達には思い入れとかは全くないので「学校変わっちゃったね」って言い合ってた。実家に住んでるから普通に学校のそばは通るんだけど、校舎も遊具もぜんぶ変わっちゃったから、自分たちの母校はなくなっちゃったんだなーってちょっと切ないときはあるかな。


福島県いわき市
小学5年生だったので、テレビで流れてる震災を身近に起きていることだと思っていなかった。地震が起きたら、はしゃいでいるような子供だった。震災中のテレビは「余震、放射能、津波」ばかり。同じCMやニュースが繰り返し放送されているのをみていたのを今でも忘れられない。それをみて辛くなったのを覚えている。放射能についても、甲状腺検査や土壌調査など初めてだらけなことで不安だった。


東京都調布市
震災当時、東京に住んでいた僕は小学校で地震に遭いました。東京の震度は震度5弱だったそうですが、たまに経験する震度4のたった一つ上の大きさとは思えないほど大きな揺れで、何年たってもあの感覚は忘れません。
金曜日の午後、算数の授業中でした。僕の通っていた小学校には、偶然にも震災の数か月前、緊急地震速報のシステムが導入されたのですが、それが鳴るよりも先に大きな揺れが来ました。
ゆーらゆーらと、今まで経験したことのないほど、ゆっくりと大きく揺れたのをよく覚えています。そして長かった。5分、10分くらいずっと机のしたにいた気がします。揺れが小さくなったと思ったらまた大きく揺れだして、の繰り返しで、酔っているような感覚になり、自分が揺れているのか揺れていないのかよくわからない状態になりました。女子の中には泣いている子もいました。向いの席にいたいつもクラス一元気な子も、自宅にいるおばあちゃんのことを心配して泣いていて、「絶対大丈夫だよ」と慰めることしかできませんでした。
揺れが収まって机の下から出た後も、小さい揺れは続きました。人生でこんな地震に遭うのは初めてで、これはただことではないと思いました。でも、僕の頭の中は比較的冷静を保っていた気がします。
揺れが収まってきたころ、校庭に避難するよう放送が入りました。僕が通っていた小学校では、月に1回避難訓練をしていたので、避難して整列するのにあまり時間はかかりませんでした。
正直、校庭に避難したあとの記憶はあまりありません。揺れが来てからの十数分の記憶が自分にとってあまりに強烈だったので。
学校の方針は、親御さんが迎えに来た生徒から下校ということになりました。地震から1時間後くらいに、母親が車で迎えに来てくれました。オレンジ色の防災頭巾をかぶって帰ったのを覚えています。共働きの家庭の子のなかにはなかなか迎えがこなかった子もいたようで、最後の生徒が帰ったのは日付が変わるころだったと聞きました。


アメリカ the United States
I was young at that time but I remember watching news footage filmed from a helicopter that's broadcasting the actual tsunami scene. Then there was also the Fukushima power plant meltdown. That was also the first time I ever heard about Sendai.
私は当時は幼かったのですが、実際の津波のシーンを中継するヘリコプターから撮影されたニュース映像を見たことは覚えています。 その後、福島の発電所のメルトダウンのニュースもありました。仙台のことを聞いたのはこの時が初めてでした。(日本語訳)


宮城県仙台市若林区荒浜
震災は小学6年生の卒業手前に経験しました。私はその時荒浜海岸から数キロの地点に住んでいました。
津波こそまぬがれたものの、避難所だった小学校に泊まり、帰宅すると電気ガス水道全て止まっていました。近所のスーパーには購入制限がかかり、数個のパンを買うために姉と3時間並んだことを今でも覚えています。
震災の影響で卒業式は中止、中学生活は体育館をダンボールで区切った教室から始まりました。
イレギュラーなスタートを切った中学校生活の、スタートでのポジティブな思い出の一つは、米軍の音楽隊が演奏会を開いてくれたことです。遠くからかけつけてくれて演奏を披露してくれるだけでなく、開演前も開演後も震災を忘れられるほどのおもてなしをしてくれました。
反対にネガティブな思い出は、津波の被害にあい長い避難所暮らしを強いられた友人に対して「風呂に入っていないから汚い」など扱ういじめがあったことです。


長崎県
あのとき私は中学生だった。何気なく通った学校の職員室前の廊下。職員室のガラス窓越しに見えるテレビを見ようと、たくさんの人が群れていた。何事かと思って覗いてみると、同じ地球で、日本でおこっているとは思えない、言葉に表せない凄まじいものがうつっていた。
現実味を感じられないまま帰宅した。自宅のテレビに映るのは、職員室のテレビでみたものと同じ。建物も人も全てが飲み込まれていった。屋根の上で助けを求める人の姿も映った。
彼らのために何かしたい、できることなら助けたい。でも、何もできない自分に歯痒さを感じた。同時にまだ現実だと受け入れられていない自分もいた。
そんななか学校で募金活動があった。周りの友達に驚かれながらも、母親にもらった一万円を募金箱に入れた。そのとき自分にできることはこれだけしかなかった。
今でも、この出来事を思い出すと、現実なのかそうじゃないのかわからなくなる。きっと10年が経とうとしている今でも、現実だと受け入れられていない自分がいるのだろう。今、この話をパソコンで入力する指も震え、心臓も大きな鼓動を打っている。


神奈川県
当時小6で、目の前が海の立地に住んでた友達一家が少し高台の我が家に避難してきて3.11の夜は過ごしました。その時に、友達の家に遊びに来てた女の子もきて、その女の子はお母さんが都内で帰宅難民になってしまっていて、とりあえずってことで泊まったのを覚えてます。次の日の朝、お母さんがめっちゃ疲れた顔でタクシーで帰ってきてすごくほっとした顔して挨拶してたの覚えてます。で、記憶は福島第一原発の水素爆発のニュース映像に飛んでて、それ見た父が、「だめかもしれない」ってつぶやいたのが心に残ってる。水素爆発だって分かるまでは、ほんとに原爆?てきな爆発だと思ってたから、もう東北には立ち入れないし、風向きによっては後遺症とかあるかもしれない、みたいなことを聞いて、大変なことになったなあという記憶があります。


宮城県仙台市泉区南光台東
地震が来たとき私は小学5年生で、ちょうど授業中だった。習字をやってたから教室中に墨汁がぶちまかれていたし、隣のクラスのメダカは水槽がぶっ壊れて廊下で跳ねていた。
地震が収まるとすぐに体育館に避難した。しばらくして保護者が続々と来て、友達は全員帰って行った。1人残された私は、あかねこ漢字ドリルとあかねこ算数ドリルで時間を潰して待っていたが、父と伯母は忙しく、母は東京に単身赴任していることを思い出した。祖母しか私の元へ来られないなあ、と思い、とてもじゃないけど老人が来られる距離ではないと判断し、解き切ったあかねこドリルたちを体育館に捨てて一人で帰った。家に着くと仏壇が倒れていたり、砂壁が崩れていたり、散々だった。急いで祖母を探すが、見当たらない。動いても会えないと思い、玄関前で縄跳びをして待っていた。二重飛びが終わり、はやぶさが終わり、燕返しをやろうか、というときに祖母が帰って来た。どうやら小学校まで行ってくれたらしい。夜もいい時間になったとき、父と伯母が帰って来た。夜空はやたらと綺麗で、しばらく主食となった曲がりせんべいには頭が上がらない。ありがとう、曲がりせんべい。


福島県西白河郡
震災当時は小6で卒業式を直前に控えて教室の大掃除をしていた。
教室から机を廊下に出して雑巾がけを始める時に地震が来た。
教室には机がほとんどなかったから1つの机に2、3人が入り込む状態で揺れをしのいだ。
廊下にあった水槽が倒れ、教室に積んであった絵の具セットが落ちてきた。
やっと揺れが収まったところでランドセルや体操着を持って校庭に避難した。避難訓練でやったことが本当に生きるとは思わなかった。
校庭に出たら地割れあり、マンホールが飛び出て電柱も倒れていた。下の学年の子たちの多くは泣いていた。本当に怖かったんだなと痛感。
小学校には父が職場から迎えに来てくれた。弟と一緒に車で家に帰った。
家に帰ったら玄関にひび割れがあって、中に入ったら本やら資料やらが全て床に落ちていた。
もちろん自室にあった漫画もすべて落ちていた。
夕方になっても停電が続き、母とコンビニを回って夕飯を調達しようと思ったがどこも何も無い。
やっとの事で見つけて家に帰ったら電気がついた。テレビをつけてみるとニュースでは一面震災特番。本当に鳥肌が止まらなかった。
断水も迫っていたから家中の入れ物に水を入れた。学校も休校になって、数日後に自衛隊の人が給水車を走らせてきた。僕は母と弟と一緒に水を貰いに並んだ。小学校の同級生とも会った。
1週間か2週間後、卒業式はちゃんと行われた。そこで久しぶりに友達に会ったが、入場前に水道の水を飲もうとした友達を止めたこともあった。
原発事故で外に出ちゃダメ、放射線水に入っているかもしれないということだったから。
そして卒業式は短く30分もなく終わった。門送は校舎内で行われた。
もちろん中学の入学式も短くなった。被ばく量を図るためのストラップも配布された。甲状腺検査は定期的に行われて今も続いている。
あの日起こったことは全て記憶に残っている。3月11日になると必ず黙祷をする。福島から上京してもずっと行っている。もちろん福島の方を向いて。
自分史上最恐の経験をしたんだなと回顧。


 

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