閖上での定点撮影
被災地を訪れ、その姿にカメラを向けたときに感じた違和感や罪悪感は、今も消えることはありません。それでもあえてカメラを向けはじめた私の頭には、メディアテークの仕事として取り組んできた地域映像アーカイブのことがありました。大津波は、その土地で生きる人々が連綿と築き続けてきた時間をまるごと押し流し、かつてそこにあった風景を思い起こすことすら難しくしてしまいました。その断絶はもはや取り戻すことはできませんが、過去の写真や映像と、これから撮影する写真をつなぎ合わせることで、イメージの世界で紡ぎなおすことができるかもしれない。過去の写真をうまく集めることができるかどうかはわからないけど、少なくともここから始まる新しい変化を記録していくことはその気にさえなればできます。閖上港地区のほぼ中央あたりにある高さ6mほどの日和山に登り、見渡す風景にカメラを向けながら、この先、この場所から見える風景を定点写真として記録し続けようと心に決めていました。
震災前のことですが、定点写真について写真家の畠山直哉さんと話したことがあります。畠山さんが工事中のメディアテークを撮影した写真があるのですが、それを展示するにあたり、実際の撮影場所に作品を置いてみるか、もしくは同じアングルで撮った現在の写真を添えてみたらどうかと私が提案したときのことです。当時わたしは定点写真のアーカイブの可能性についていろいろと考えていた時期でもあったので、撮影場所と時期が特定されている写真があれば、そのあとの写真を付け加えてみたいという衝動?にかられるのは当然ではあったと思います。結局、どちらも実現はしませんでしたが、そのときに畠山さんが言った「定点写真は機械が撮るのがいい」という言葉が忘れられません。悪く考えれば、「それは人が撮るものではない」という意味にもとれるのですが、私はむしろ、「人が撮ったのではつまらない」という意味に受け取った覚えがあります。定点写真を撮るのであれば、そこから人間の恣意性をいかに排除できるかが鍵になるということだと私は理解しました。誰かが何かを撮るのではなく、ただ撮ることで誰かがそこになにかを見つけるのを待つ。かねてから、作る側、送る側だけではなく、見る側、受け取る側の創造性が同じくらい大切だと思ってきた私には、それは当然の発想でもありました。かりにすぐにはその意味や価値を理解できなくても、100年後のだれかが何にも代えがたい価値をそこから発見するかもしれないことだけは歴史が証明していることです。もちろん最終的に誰も何も見つけられないということはあるかもしれません。しかしそこに残されたイメージは、人間というスケールはもちろん、時空をも超えた、もうひとつの環境を私たちにもたらしているといってもいいのではないかと思います。どんな言葉も表現も及ばないあの震災のできごとに、対等に向き合えるとしたら、もしかしたらこんなやりかたでしかないのかもしれないと言ったら、言い過ぎでしょうか。
機械が撮るように撮るためには、撮りかたをできるだけ厳密にルール化して、それをシンプルに繰り返さなければなりません。震災後初めて閖上でシャッターを切った5月22日は、たまたま給料日の翌日です。撮影した場所は、友人の知り合いが住んでいた日和山の周辺でした。それで私は、毎月給料をもらったら日和山に撮影に来るということにしたのです。定点ポイントは、日和山の上の10m×15mほどの広さの平地の四隅とそれぞれの辺の中央の計8か所とし、それぞれの正面の風景つまり8方向をできるだけ広角で、水平線が画面の上から5分の1のあたりに来るように構えることにしました。それでも実際は微妙にずれてしまいましたし、そのずれを完全になくすための手はずもなぜかとりませんでした。もちろんやればできたのですが、さすがにそこまでやることにはどこか抵抗を感じていたということはあるかもしれません。ちなみに同じ場所に立ち、向きを変えながら撮影できれば360°ひとつながりの写真にすることも可能なのですが、台地状の日和山で撮影するためにはそれぞれの方角が見える台地のへりに移動しなければならず、そのために生じる視点のずれによってひとつながりの写真はここではあきらめています。
このようにして撮影した日和山からの定点写真のほかにも、復興工事中一時期存在していた、かさ上げ工事の高さを示すために作られた盛り土の上からの8方向定点撮影、ドローンによるテスト撮影、自転車で被災地を移動しながらのGoPro撮影、さらに車のドライブレコーダーを使った映像記録などなど、閖上撮影中にいろいろ試行錯誤をくりかえしましたが、継続性をうまく担保できないことなどにより、残念ながらそれきりになったものが少なくありません。実は、閖上以外の各地の被災地でも定点撮影を意識した撮影は試みていたのですが、同じ理由でそのままになり現在に至っています。
私が閖上で撮影した写真の中には、定点撮影の際にたまたま目にとまったものをスナップ的に撮影したものがあります。それらのほとんどは記録を意識したものというより、たまたま居合わせた人であったり、単に足元に咲く草花や遠くの空であったりで、いまあらためて見返してみるとこれは私の閖上撮影日誌みたいなものなのかなと思います。機械となった私が撮った写真のかたわらに、生身の私がその時たまたま撮った写真を添えることに、どんな意味があるかはわかりませんが、あえていっしょに残しておこうと思います。
定点撮影 第2期
2011年の5月からスタートした定点撮影は、撮影日が翌月の初頭にずれこんだこともありましたが、原則毎月継続してきました。私が急病で入院したときも、月末に退院したその足で閖上に撮影に向かったことが忘れられません。とはいえ一度だけ、閖上の周辺スナップは膨大に撮ったにもかかわらず肝心の定点写真が抜けている月があったほか、ひとつだけ必要な方角が抜けている月があるなど、整理するなかで発見したミスもないわけではありません。そのようにしてまる10年がすぎた2021年5月、ルールのひとつとしてきた給料もなくなったこともあって、そろそろ毎月の定点撮影は潮時かなと考えるに至りました。日和山周辺のメモリアル公園の整備も終わり名取市が復興達成宣言を行って1年以上が経過、公園や近くの住宅地が整備されたあとの日和山周辺の風景が、もはやほとんど変化がないように見えていたこともあります。それでも10年間続けてきた撮影は私の生活の一部ともなっていて、なかなかやめるきっかけがつかめず、結局6月も同じように閖上に向かいました。
訪れた6月21日の閖上は、朝からとてもお天気がよくて、まぶしいほどの光のなかを気持ちの良い風が吹いていました。団体客が来ない限りふだんはあまりひと気のない平日の日和山周辺ですが、月曜日だというのにその日はなぜかあちこちに人が立っています。いつものように日和山に登り撮影を始めると、道に立っている人たちがおそろいの朱色のベストを着ていることに気づきました。南側にある慰霊塔の向こう側の大きな駐車場にはみたことのないほどの車両が並び、その周辺には警察や交通整理の制服をきた人がたくさん集まっています。さらに、内陸方向から白バイが2台並ぶように走ってきたのを見るに及んで、ようやく私は、その日が東京オリンピックの聖火リレーが走る日であることを理解ました。ひととおり撮影を終えてネットで調べると、あと1時間半ほどで目の前の市場から閖上での聖火リレーがスタートするのだとわかりました。
スポーツは全般的に苦手な私ですが、4年に一回のオリンピックに関しては、そこで展開される選手たちの物語や開会式などのスペクタクルをとても楽しみにしているひとりです。何を隠そう、前の東京オリンピックの開会式で演奏されたオリンピック賛歌や、古関裕而の(当時は日本人作曲としか知らなかった)オリンピック行進曲は、小学生だった私の心をまるごと捕らえたのですが、その気持ちは今も変わることはありません。しかし今回の東京オリンピックについては、福島の原発の状況を偽ってまで招致されたことに対する許しがたい思いがあって、どうしても開催を喜ぶことができないでいたのです。さらに新型コロナの感染拡大による延期をへて、2021年、コロナの拡大が続く中、再延期や中止を求める多くの国民の声を無視して開催に突き進むオリンピックのありように対し、もはや私は根本的に疑問をもたざるをえませんでした。はじめから掛け声でおわるのではないかと揶揄する向きもあった「復興五輪」という言葉も、この時期もはや掛け声ですらなくなっていたと思います。誰もいないところを走る聖火リレーが各地ではじまり、テレビでその映像が流れるようになると、オリンピックにかける聖火ランナーの純粋さがあまりに痛々しく感じて、とうてい正視することができずに思わすスイッチを切る毎日でした。
そんな私にとって、閖上を走る聖火ランナーをどんな気持ちで迎えることができるか、まったく予想がつきませんでした。ただ、いつもの撮影場所なら、向こうから近づいてくる正面と通り過ぎて去っていく後ろ姿、さらにそれに続くいまひとつ評判のよくない車列も含む状況を俯瞰的にとらえることができるのはまちがいありませんでした。定点観測の一環として、あるいは付随するスナップ写真としてそれを撮影するのかどうか、しばらく考えたのですが、私自身がそのとき抱えていたオリンピックへの負の感情を考えたとき、10年続けてきた定点観測のなかにその感情を乗せてしまうことに抵抗を感じている自分に気づきます。リレー前後の交通規制も考えると、撮影後、閖上を後にできるのが何時になるかわからなくなることもあって、私はそのまま閖上を立ち去ることにしました。
聖火リレーを待つ閖上を背にして車を走らせながら、なぜか私はこれが最後の定点観測になるかもしれないと考えていました。その翌月である7月、いつも閖上に向かう時期が近付くにつれ、撮影に行くかどうかの判断を迫られていきます。継続の有無についてその時点でまだ迷い続けていたのですが、そんなある日、ある妥協案を思いつきます。毎月の給料はなくても、偶数月の年金はあるのだから、すこしペースダウンして2カ月に1回、年金をもらったら撮影に行くことにすればいいのではないかという玉虫色の案です。そして私はその考え通り、7月分はとばして8月に定点撮影を行うと同時に、これまでつづけてきた定点写真について、公開を前提にまとめなおすことにしました。聖火リレーを待たずに閖上を後にしたことについて、歴史研究者である古い友人から、その時の私の選択を強く批判されましたが、私自身それに対して反論する言葉はありません。きわめて個人的な思いもありつつ、どこかこの定点撮影にふんぎりをつけるきっかけを探していたのかもしれないと今は思っています。
さてこうして、毎月の日和山定点撮影と入れ替わって、2カ月おきの日和山定点撮影第2期は、いつまで続くのかまったくわかりませんが、6月を起点にはじまったところです。これまでの定点撮影がそうであったように、何が写ることになるのかはわからないし、見る人によっては何も写っていないとしか思えないという結果ももちろんありえるのですが、それの有無を前提としないのが定点撮影でもあることを思い起こし、まずはできるところまで続けてみようと思っています。
2021年9月11日 佐藤泰美