仙台市宮城野区の高砂地区で生まれ育ち、東日本大震災当時は高砂向田地区の町内会長として避難所運営を経験した髙橋親夫さん(建築士)は、2017年、自身の東日本大震災の体験を「崩落した3月」という冊子にまとめました。
この冊子は、震災当日から4月上旬までの日記と写真、そして高砂市民センターの避難所運営に関する資料で構成されています。
冊子全文は、下記のリンクからお読みいただけます。
「崩落した3月 私の体験した東日本大震災 2011.3.11〜2011.4.12」(PDF版)
この記事では、冊子に掲載されている写真と、上記の日記から一部抜粋し再構成した文章を、時系列でまとめて紹介しています。
(以下、写真・文:髙橋親夫)
2011年3月11日が来るまで
私の津波の体験としては、1960年5月22日に発生したチリ地震の津波で、七北田川を30cmほどの津波が遡っているのを少年の頃見ています。三陸地方では大きな被害がありましたが、この地域では何ら被害は出ず、ここに住む私たちにはそれほどの危機意識はありませんでした。
2010年2月27日に発生したチリ地震による津波の際は、仙台沿岸地域にも避難指示が出ましたが、消防署や消防団の広報、行政側の広報が統一せず、津波らしいものもなかったので、地域住民から情報提供に対する不満が高まり、行政側や消防署が高砂地区連合会の会合の席で説明を求められ、その対応について追及される場面が2度ほどありました。
このような経緯がありましたので、1年後の東日本大震災の前には、たとえ情報提供があったとしても地域における危機意識が低かったというのが私たちの実態でした。又、蒲生ではそれまでの防潮堤を嵩上げして、津波に備えていたという安心感もあったのかもしれません。
このような状況で私たちはあの日を迎えました。
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3月11日(金) 晴れのち夜雪 気温低下 最高6.2℃ 最低マイナス2.5℃
妻は9時から集会所で、地域の高齢者対象に介護予防活動の「向田クラブ」のひな祭りを開催に出かけました。私も高砂向田地区の町内会長として10時からそのお手伝い。向田クラブは多くの参加者があり、その中で、中国人の女性で日舞を習っている人を師匠のK子さんが招き、日ごろの練習の成果を披露するなど、楽しいひと時となりました。午前中に会は予定通り終了しました。
金曜日の夜はいつも通り、自宅で茶道教室が予定されていました。今夜のお楽しみテレビは韓国ドラマ「イ・サン」。
私たちは昼食をとり、ひと息いれていました。
14:46 三陸沖を震源とする大地震が発生。
その時私は事務所に、妻は自宅に居ました。外に出たら電柱が大きく揺れてしなりました。
そのあと地響きと共にさらに大きな揺れが来て、電線が切れ、地面に落ちました。悲鳴のような叫びが聞こえました。事務所の室内はすべての棚がたおれ、折り重なった書類や書籍で埋めつくされ、床は見えなくなっていました。ラジオもカメラも所在不明でした。記憶をたどりながら、仕事で使用していたデジタルコンパクトカメラを手探りで引き出しました。停電のため充電はできません。そのカメラを携えながら、電池の使用できるかぎり状況を記録しようと思いました。
私は町内の安否確認のため徒歩で見回りを始めました。
町内の区域を何度も避難するよう声掛けをしながら歩き回りました。みやぎ生協高砂駅前店の付近を通りかかると、社員から生協の屋上へ避難するよう話しかけられました。大津波警報が出ているとのこと。ラジオ放送によると、津波は10〜30分後に襲来すると。私は津波が来ること、生協の屋上に避難するようにと叫びながら再び町内を回り続けました。
16:15
町内の道路わきのU字溝の蓋の間からは黒い下水が噴き出し、やがて深いところでは膝まで水に浸かりました。
津波が押し寄せてくるというので七北田川の堤防に上がってみました。津波は堤防のすぐ下まで来ていて、下流のたくさんの破壊物を浮かべ、ものすごい勢いで上流へと遡って流れていきました。こんな津波はこれまで見たことがありませんでした。行政が公表していたシミュレーションとは全く異なる、予想外のものでした。
16:16
高砂大橋から上流方向。すぐ目の前の川を遡上する津波を目撃し、橋のたもとで夢中でシャッターを切りました。まもなく雪が降り始めました。下流から、破壊された建物のたくさんの木材や家屋が上流へ流れていきました。やがて津波は、引いていくのが見えました。
16:18
七北田川に架かる高砂大橋より北方向の歩道。歩道の右側に写る県道23号仙台塩釜線(通称:産業道路)は交通渋滞、左側は高砂中学校の通学路で、自転車が乗り捨てられていました。
16:20
高砂大橋の左岸と産業道路の交差部。このような津波の状況下で、産業道路は車の渋滞で動かなくなりました。
白鳥方面の状況を確認しようと、自転車道を歩いて、高砂中学校への通学路の堀の橋まで来たとき、数人の男性が騒いでいるのに気づき、どうしたのかと尋ねると、人が流されてきたので、助けようとして叫んでいるようでした。何か長いものでもないかと堤防の法面を探していましたが、何もありません。私は堤防に上がってみましたが、眼鏡が濡れてよく見えません。「どこだ」と聞くと「よく見ろ」と怒鳴られました。七北田川の岸からだいぶ離れた場所に、男性が木材の上に乗って上流へ流されていくところでした。助けようがなかったので、すぐに引き返し、宮城野消防署高砂分署へ小走りで向かいました。この件を告げると署員から、既に報告を受けてはいるが、増水のため消防車が近づけない状況だと言われました。
高砂駅前生協に戻ると、町内の大部分の人たちが屋上に避難していました。気温がだいぶ下がっており、寒かった。
情報収集のため、地域の避難所となっている2km先の高砂小学校へ、被害状況を撮影しながら徒歩で向かいました。途中、家屋の損傷が激しい場所がたくさんありました。
16:56
小学校近くの雲洞院(仙台市宮城野区福田町)の山門が道路に倒壊していました。
16:59
学校に到着すると、体育館に避難する周辺の町内の人たちが続々と押しかけており、教頭先生に避難者を受け入れるかどうかを質すと、「来た者は受け入れます」との回答を得ましたが、まもなく体育館は避難者で一杯になる事は明らかでした。
17:04
福田町横丁付近の様子。前方は国道45号線。信号の電気が消え、仙台方面から続々と歩いてくる人たちが続いていました。避難民かと思って尋ねると、勤務先から自宅に帰る人たちでした。車は渋滞していました。
17:14
帰りに、東北厚生年金病院(現在の東北医科薬科大学病院)内の状況を確認するために立ち寄ると、前面道路は冠水し、入りにくい状態になっていました。
2階の暗い廊下のベンチに腰を下ろし、たくさんの避難している人たちの姿がありました。顔見知りの人たちもたくさんいました。病院は収容するスペースが限られていることが分かりました。
みやぎ生協高砂駅前店の屋上に戻ってみると、テントが立てられ、周りをブルーシートで囲んだ区分がいくつもあり、そこで石油ストーブを囲み、寒風を凌いでいました。海の方を見ると、石油プラントの方面が赤くなっていました。続く蒲生方面でも赤くなっていて、避難してきた人たちが、あちこちで火災が発生していると話しているのが聞こえました。生協からはカップ麺などの無償提供などがあり、避難者への温かい支援がなされました。
こんな寒い夜を屋上で過ごすのも大変なので、生協の建物内部へ入れてもらえないかどうか確認したところ、建物内は危険なので内部への受け入れは出来ないとの回答でした。それではと女性、高齢者、子供たちを優先的に東北厚生年金病院へ避難するよう勧めました。その後生協は男性も病院の方へ避難するよう促し、扉を閉めてしまいました。乗用車で避難している人たちを残して、私たちも病院へ向かいました。
病院は廊下だけでしたが、2階はもちろん、5階も解放し、その他の階にも避難民の人たちがいました。たくさんの避難した人たちで溢れ、廊下に毛布をかぶって両側のベンチや床に足の踏み場のないほど横たわっていました。そこでたくさんの顔見知りの人たちと出会い、無事を確認しました。
それまで、町内の人たちが避難している生協の屋上、病院、高砂市民センターを何度も確認して歩き回りました。この3か所が町内の人たちの主な避難所であることが分かったからです。本来、東北厚生年金病院は避難者の受け入れはしないこととなっており、また高砂市民センターも避難所に指定はされていませんでしたが、非常事態に急遽対応した形でした。
病院では毛布が支給されました。その夜、妻と私は病院の5階の廊下で一夜を過ごしました。強い余震は何度も続き、津波も繰り返し川を遡っていきました。
利府の会社に勤務している次女の夫や多賀城の病院に勤務している次女とその保育所の孫娘の安否はまだ確認できませんでした。
参考:仙台市宮城野区高砂周辺の地図(クリックすると拡大します)
[2024年8月22日記事公開]