ごうけいほうもんしゃすう

仙台市東部の2011年3月11日〜4月12日の日記(2)3月12日

「崩落した3月」私の体験した東日本大震災



3月12日(土) 快晴(最高8.8℃ 最低マイナス1.1℃)

東北厚生年金病院の廊下で一夜を明かし、5時起床。明るくなりかけた堤防に上がり、津波の状況を見に行きました。徒歩で堤防を白鳥方面へ進みました。

05:28
高砂中学校の校庭にはたくさんの乗用車があり、校庭は一面水浸しで、学校の周辺も同様でした。たくさんの避難者を収容していることが分かりました。

05:33  
高砂中学校から七北田川上流方面。下流の方で静かで不気味な音が聞こえてきます。その方向を見ると、灰色のものが遠くに見えました。まもなく津波が近づいてくるのが分かりました。何段にもわたって私の前を上流に向かって過ぎていくのが見えました。

05:37
仙台市宮城野区中野白鳥。昨日発生した仙台港方面の火災はまだ鎮火していませんでした。今も東の空が赤く染まり、煙を高く上げていました。

白鳥団地は約11.5mほど住宅の敷地が冠水したようです。まだ道路や敷地は水に浸かったままでした。たくさんの漂流物が散乱していました。

やがて親戚の地元工務店に達しました。敷地には車で入れますが、奥までは冠水し、進入できません。自宅の玄関の扉が開いていたので覗いてみると、上がり框(かまち)との段差5㎜ほどで辛うじて床上まで水が上がらない状態になっていました。屋外の檻の中の犬が一匹私に気づき吠えました。よくあの水の中で生きていたものだと思いました。

白鳥団地の入り口の坂の途中まで水が上がり、山本屋という店では水が引いた前の道路の清掃をしていました。その奥はまだ冠水状態でした。

東側の道路は流れてきた数個のコンテナが道を塞いでいました。

06:02
高砂中学校の校門前の自転車道。

06:28  
ふたたび東北厚生年金病院に引き返しました。海の方角を見るとまだ煙が上がっています。

07:03  
東北厚生年金病院リハビリ棟の様子。

病院の東側の敷地に駐車していた車の脇で知人と話しをしていましたら、同じ町内の親しい知人で、長男が私の次女と同級生のお母さんでもある同世代の女性が、私の方に近寄ってきて、「うちのお父さんが帰ってこないの」と話し始めました。昨日、地震発生後に避難するよう町内を回って呼びかけて歩いた時に、ご夫妻を見かけていました。何事かと怪訝に思いながら話を聞いてみると、地震直後、第二の職場である会社へ向かったのだとの事。会社は岡田にあり、大地震が発生した際には、会社に集合するという決め事があり、出かけたのだと語りました。探しに行ってみたが、鍋沼、新浜方面は水が引かず、それ以上どうにもならなかったと話しました。

07:54
一時自宅へ。

自宅付近の排水溝から噴き出した水は引き、車庫にあるシビックを見ると、床上まで浸水したことが分かりました。エンジンを始動すると、かかりましたので一安心しました。断水していなかったので、フロアーマットを外し、内部を洗い、吸水するように新聞紙を敷きました。下水が噴出したので周辺にはいつまでも臭気が漂っていました。

11:28
自宅近くの事務所の様子。

 

和田新田の叔父たち家族とは連絡が取れず、場所柄安否が確認できないので、午後現地に行ってみました。近づくにつれ、河川敷には流された家屋や木材などの多量のゴミとたくさんの乗用車が散乱していました。堀にもおびただしいゴミとたくさんの乗用車が様々な方向を向いて転がっていました。和田新田は惨憺たる状況でした。ただその光景に呆然としながら進んでいきました。

16:35
仙台市宮城野区の和田地区の様子。

中小路は入り口からたくさんの破壊物が道を塞いでいました。右側には木倉が土台を上に向け転がっていました。壊れた水道管から水が噴き出していました。2階付近まで水が上がったようでした。すべてが破壊され、泥とゴミと水にまみれていました。

16:42  
和田新田からのぞむ七北田川河川敷の様子。

叔父の自宅が間もなく見えるところまで来たとき、向こうから消防関係者のような人たちが来て、何のために来たのかと聞かれ、「親戚の安否を確認に来ました」と話してその場から引き返しました。状況から間違いなく、叔父の自宅も周囲の家屋同様破壊されたのだと分かりました。

 

その夜は自宅で休みたいと思いましたが、妻が不安がり、昨夜と同様東北厚生年金病院へと向かいました。朝、避難者名簿に記載しておきましたが、宿泊することを断られてしまい、自宅へ戻りました。
昨日から一帯は停電でした。しばらく自宅の暗い中で過ごしていましたが、余震が続くので妻は不安が高まったのでしょう、とても一夜をここでは過ごせないと訴え、高砂市民センターへ行くことにしました。

体育館に入った時、和田新田の叔父たち家族に会うことが出来ました。話によると地震直後に避難先としてキリンビール仙台工場へ、その後自衛隊の車で鶴ヶ谷オープン病院へ、そして仙台工業高校の体育館で一夜を過ごし、とても寒くて耐えられずここに来たのだと、これまでの経過を語りました。双方の無事を喜び合いました。こうして夜、私たちは高砂市民センターで一泊しました。
そこで妻から、次女と孫娘の安否が確認できたと聞きました。それによりますと、次女の夫は妹が住んでいる塩釜の月見ヶ丘へ実家の両親と共に避難しているとのことでした。次女は砂押川の決壊で勤務先の病院は1階が水没し、孫娘の保育所も来年行く予定だった幼稚園も水没したとの話でした。次女は娘と病院で一泊し、翌日娘を連れて夫のいる月見ヶ丘へ行ったとの事。病院に通勤で使用していた乗用車は流出してしまったことを聞きました。

 

参考:仙台市宮城野区高砂周辺の地図(クリックすると拡大します)

 

 

20248月22日記事公開]

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