ごうけいほうもんしゃすう

仙台市東部の2011年3月11日〜4月12日の日記(4)3月26日〜4月12日

「崩落した3月」私の体験した東日本大震災

 

326日(土) にわか雨 最高7.1℃ 最低0.2

午前中避難所運営をし、午後は地震以後に過ぎ去った日々を記録しました。カメラを持ち、軽トラックで岡田地区に行きました。道路の南側の水田にはたくさんの破壊された家屋のゴミと車と様々なものが泥の中に散乱していました。もちろん道路の両脇は道を片付けた多量のゴミ類が道幅を狭くしていました。

タイヤのパンクを心配しながら進むその前に広がる光景は、やはり筆舌に尽くしがたいものでした。電柱は傾き、電線は見当たらず、自衛隊のたくさんの人たちが片手に棒を持ち、道の両側にいました。行方不明者の捜索に当たっているのでしょう。海側の遠くにも捜索しているとみられる人たちが歩いていきました。道路を数台ではありますが車が行き来します。若林区との区界まできたとき、自衛官と思われる人が進入禁止とするため、右折するよう指示していました。

仙台市宮城野区 南蒲生

 

仙台市若林区 新浜

 

仙台市若林区 荒浜狐塚付近

 

仙台市宮城野区 岡田

 

仙台市宮城野区 西原
コミュニティセンターはすっかり水が浸入し、窓ガラスが破壊され、児童館の様々な用具が外に散乱していました。

道路沿いの北方を見ると、道に家屋の破壊物が山積となり、家屋の破壊状況は和田以上に激しいものでした。更に進むと、道路沿いの鉄工場と思われる建物や倉庫、事務所が火災で焼けただれ、無残な姿で連なっていました。蒲生はまさに壊滅でした。

堤防からは中野小学校を残し、遠くの東北スチール株式会社(現:JFEスチール株式会社)などの企業の建物がよく見え、その間の家屋はことごとく壊滅していました。すぐ海が近くに見える。川の中には数台の車がわずかにその姿を水上に出していました。

中野小学校の1階は乗用車が窓を突き破って中に入り、全てのものが泥にまみれていました。東側の出入り口とみられる鉄骨部分は破壊され、校舎には流された住宅の屋根が外壁にへばりついていました。

プールはたくさんのゴミや建物の木材で埋まっていました。この場所に避難した人たちはどんな思いで津波の襲来を眺めていたのでしょう。幾重にも不気味な音をたてて繰り返す広大な津波の中で孤立し、死の恐怖におびえながら過ごした時間は想像を絶します。

 

仙台市宮城野区 蒲生

 

仙台市宮城野区 西原

 

仙台市宮城野区 和田新田

帰路についたときは、日が落ちて宵が迫っていました。
今夜から、被災した叔父たち夫妻は、妻の計らいでアパートに移りました。

 

327日(日) 晴れ 最高6.9℃ 最低マイナス1.3

7時半に高砂市民センター避難所へ行く。今日の炊き出しは、朝は高砂向田町内会、夕は北福室第一町内会。高砂市民センター避難所の組織的運営は順調に推移しているので、もう心配することはない。

午前中、高砂市民センターで避難所運営に参加しながら周辺の避難所を回りました。
高砂小学校、高砂中学校、岡田小学校の避難所も含め、どの避難所も苦戦しているように見えました。長期にわたる奮闘の中で、運営する人たちや避難生活をしている人たち双方が非常に疲れ切っているようでした。

仙台市宮城野区 岡田

 

仙台市宮城野区 和田新田

震災直後に岡田の職場へ向かって帰ってこないと語っていた町内の親しい知人の夫は、その後利府の県営体育館の遺体安置所で確認されました。今日火葬が終わり、自宅に戻ってくる頃だと妻が話したので、電話でそのことを確認し、午後3時頃妻と二人で焼香するため自宅に伺いました。

 

328日(月) 晴れ 最高10.7℃ 最低マイナス1.7

8時に高砂市民センターの避難所へ行く。

・炊き出し:朝は高砂向田町内会 夕は高砂駅前町内会
・自衛隊の入浴サービスや秋保温泉ホテル(佐勘、ニュー水戸屋、岩沼屋)の送迎バス付き入浴サービスなどの情報が入る。

 

329日(火) 晴れ 最高13.6℃ 最低マイナス0.4

高砂市民センター避難所へ出たり入ったりしていました。今日の午前中で町内会の炊き出し支援は終了となり、私も事実上役割を終了しました。電気が回復して以降3町内からの避難者の多くは自宅に戻り、新たな生活を始めています。避難所で生活を続けている人たちは、住む家を失った人たちでした。

自宅で宿泊者が使用した布団を押し入れに収納したり、玄米を一袋精米したり、破損した家財の修理など自分のことに時間を費やしていました。近くのホームセンターは被災して開業していませんので、荒井のホームセンターに行ってみましたが、入り口でわずかな商品を扱っているだけで、店内は被災した建物の改修中でした。

夜、震度4の強い地震があり、今夜から1階の母が使用していた部屋を寝室にしました。

 

330日(水) 曇り時々小雨 最高13.0℃ 最低1.4

朝、6時半過ぎに下山監事宅へうかがい、会計資料を渡して災害直後の総会の事業を説明し、決算書に捺印をいただきました。もう一人の監事である高橋さんにも同様に会計資料を渡して事情を説明し、その場で署名捺印をいただきました。こうして総務部長の総会資料原稿の仕上がりを待つばかりとなりました。

福室のガソリンスタンドは、給油の為国道45号線は自動車の長い行列ができていて、まだ解消には至っていません。
知り合いのプロパンガス販売店から灯油3缶購入。自宅と販売店は蒲生にあり、自宅は流出してしまいまいましたが、少し離れた工場はかろうじて無事でしたが、そこは電気の回復が遅れていました。

 

331日(木) 曇りにわか雨 最高11.4℃ 最低3.5

540分、海岸通りを軽トラックで荒浜方面へ向かいました。両側の被害状況は壊滅的。特に道路より海岸側の被害は甚大。乗馬クラブの建物や特別養護老人ホームの建物は残っていましたが、防潮林の松林はほとんど残っていませんでした。
名取川河口付近の藤塚地区は壊滅していました。閖上の右岸堤防のあんどん松は、対岸からですが残っているのが見えました。閖上大橋は点検の為通行止めで、渡ることは出来ません。
名取川は何もなくなり、さっぱりしていて静かで、たくさんの水鳥が川面にゴマ粒のように点々として浮かんでいました。水田には泥と松林の松と乗用車とおびただしい破壊物が散乱していました。

閖上大橋北から荒浜方面

 

閖上大橋北から藤塚方面

夜、余震がまだ続いています。

 

41日(金) 晴れ

軽トラックの燃料が少なくなったので、口コミにより国道45号線沿いの出花モービル石油のガソリンスタンドへ給油のために早朝6時から並びました。私が着いた時は中野栄駅から産業道路への通りには車の列はありませんでしたが、脇道に中野栄駅までに相当する長い給油を待つ車の列がありました。
8時半頃に3千円分の給油を済ませ、自宅に戻りました。これで一安心です。

 

42日(土) 晴れ

日中、事務所前と自宅前の下水が吹き上げて溜まった泥を撤去し、時間をかけて水道水で洗浄しました。事務所の玄関の土間も自宅の駐車場も水洗いしました。事務所の床も拭き掃除をしました。少しずつきれいにしていって、しだいに落ち着いた生活を取り戻したいと思います。

 

43日(日) 晴れ

朝から事務所の倉庫の片付けを集中して行いました。カタログや現物見本、部材、木片その他を時間をかけて、残すものと廃棄するものとに分別し、災害ゴミとして仙台市の災害ゴミ集積所となっている日の出町公園へ運んで処分してしまおうと考えたからです。その量は軽トラックの荷台に積み切れないほど山になりました。そして長い行列に並んで長時間その順を待ちました。しかしながら入り口で企業ゴミと判断され、受け取りを拒否されてしまいました。

苦労して分別した廃棄物は持ち帰るしかありませんでした。仕方なく事務所の前へ下ろし、シートをかけて置きました。

遠方の親戚から支援物資や見舞い品が届きました。
被災地の届け先に届けてほしいという送付先からの依頼の品が一緒に入っていましたので、それぞれに届けました。また見舞いにわざわざ訪ねてきてくれた人たちも多くありました。またこちらからも被災した遠い親戚の見舞いに出かける日々が続いています。

 

44日(月) 晴れ

今朝6時起床。避難所運営に当たってからは、この時間に起床するのが習慣となっていました。

七北田川に沿って堤防を上流へと向かい、福田大橋を渡って対岸を砂押の方へ下りました。そこには下流から津波に流されてきた平屋の住宅が、川のほぼ真ん中に建物の上部を水面から出して沈んでいました。
少し上には橋の橋脚補強工事でたくさんの鋼矢板が打ち込まれていて川幅が狭くなっており、上流に流されるのを阻んだようです。朝日が当たる穏やかな水面に飛び出た住宅の無残な姿の周りには、たくさんの水鳥が泳いでいました。

仙台市宮城野区 福田大橋付近

 

45日(火) 晴れ

八木山方面からの住宅補修工事依頼があり、現場確認に出かけました。屋根瓦が落下し、その復旧工事です。工事関係は震災によりどこでも応急的な仕事依頼で逼迫しており、材料も職人もまったく不足していて、専門業者はどこも引き受けるところがありません。

昨日からガソリンスタンドの給油が平常に戻りました。同じく木材店が営業を始めましたが、こちらの方は構造用合板が全く品切れとなっています。

余震がまだ続いていますが、小さな揺れでも孫娘は食卓の下へすぐ避難しました。

 

46日(水) 晴れ

自宅で一人休んでいると、アパートで独り暮らし、東北厚生年金病院へ避難した電動車椅子の男性のお兄さんが訪ねてきて、今、長町病院から元のアパートに帰ってきたと言い、菓子折りを持ってお礼と報告に来られました。こうしてそれぞれが少しずつ日常生活を取り戻していくのでしょう。今日はゆっくり休みたいです。

 

47日(木) 薄曇り

5時半閖上へ向かいました。今しかできない事をやるべきだと思ったからです。
数日間でかなりの建設機械が入り、片付けが進んでいました。碑が建っている小高い日和山の階段を上りますと、この間来たときには無かった鎮魂の祈りを記した白い小さな板が2カ所に立っていて、仏像の絵や花や果物が供えられてありました。

今日はいろいろな雑用をこなし、だいぶ夜も更けたので焼酎の水割りでも飲んで寝ようと、冷蔵庫から瓶を取り出し、コタツにグラスを持ってこようとした時、大きな余震が発生しました。2332分頃宮城県沖を震源とするM7.2(気象庁暫定値はM7.4だった)の激しく突き上げるような地震でした。食器が床に落下して壊れ散乱しました。棚からはいろいろなものが落ちました。それでも停電にはなりませんでした。

外に出ると暗い中にたくさんの照明が見えました。テレビで津波警報が出されました。もう少しテレビの情報を見ていたかったのですが、地域の安否確認に行かなければなりません。隣のアパートの老姉妹がアパートの前でどこに避難しようかと佇んでいました。自宅向かいの貸家に住む高齢者の男性が自転車で避難しようとして走り出していくのに声を掛け、避難先を聞くと東北厚生年金病院と言ったので、先ほどの老姉妹に病院へ避難するよう促しました。私は車が無いので送り届けることもできません。二人で杖をつきながらゆっくりと病院へ向かいました。東京の長女から安否確認の電話が入りました。別のアパートに住む電動車いすの男性のところへ行きましたが、玄関には錠が掛けてあり、何度も窓越しに声を掛けましたが返事はありませんでした。もしかすると覚悟を決めてロックアウトしているのかなとも考えたりしました。しかたなくそこから町内の安否確認をしながら歩き回りました。車で避難する人たちが暗がりに消えていきました。自宅にいると思っていた妻はどこに行ったのか分かりません。自転車もありませんでした。自宅隣のアパートの駐車場には、もう一人の若い障害をもった男性の乗用車しかありません。次女たち家族も車で避難したようです。

高砂市民センターの避難所へ状況を確認しに向かいました。それほど多くはありませんでしたが、次々と避難者が入ってきました。避難者を迎える準備として、宿直と共にホールに畳を敷いたり、受付にあたったりしていました。人数的には多くはなかったので、次に高砂駅前生協の屋上へ行ってみると、車の中に避難者の人たちがいました。東北厚生年金病院へ行ってみたら、避難場所として2階の廊下と会議室を開放していました。多くの顔見知りの人たちから声を掛けられました。

2度ほど七北田川の水位を見に行きましたが、変化はありませんでした。再び高砂市民センターの避難所へ戻りました。やがて津波警報が解除となり、避難者の一部は帰宅し始めました。国道45号線北側は停電との事。時間は深夜の1時を回っていましたので私も帰宅しました。
自宅の2階も事務所も11日と同様散乱していましたが、とにかく眠りにつきました。

 

48日(金) 薄曇り 天候はだんだん下り坂

宇都宮の長男から安否確認の電話がありました。
朝食が終わり次第、事務所の片付けを始めました。午前中で3室完了。自宅2階の倒れたタンスを立て直しました。
昨日の深夜に大きな地震があり、就寝が朝方になったので少々疲れていました。深夜停電となり、就寝。まだ余震は続いています。

 

49日(土) 小雨のち曇り

朝方電気が回復し、起床すると居間のテレビと照明がついていました。

岩切へ行く途中の国道45号線の北側は7日の余震で停電となり、信号が消えている状態でした。利府街道から岩切小学校の方へ左折し、岩切の今市橋にかけての通りは、数日前よりかなり沈下が激しく、アスファルトの断裂やマンホールなどの突起物などで通行しにくくなっていました。岩切小学校の梅の花が満開でまぶしく見えました。

 

410日(日) 晴れ 久しぶりの暖かい日です

町内会総会の準備の為、8時半頃集会所に行く。
今回の町内会の総会はいつもの総会より遥かに盛り上がりました。今年1年は震災の影響で関連するイベントや祭りなどの行事は中止となるでしょう。
帰りにみんなで八鍬八幡神社に立ち寄り、鞘堂(さやどう)内のお宮が地震のため移動したのを、氏子たちが力を合わせ元の位置に戻しました。倒れた石灯籠は415日の例大祭までに復旧することを申し合わせて帰りました。

7日の余震の被害は思いのほか大きく、各地で大きな影響がありました。近くの高砂駅前生協の店舗でも鉄骨がむき出しになったり、天井が落下するなどの被害があり、店の一部が使用できなくなりました。

 

411日(月) 晴れ 夕方雨

隣の甲区町内会の会長宅へ雷神社の上納金を届け、今年の例大祭についての開催を確認すると、中止となったことがわかりました。

町内会総会も大きな混乱もなく終了したので、これからは自宅の片付けを始めようと考えました。自宅2階の本箱の本が7日の余震によって再び散乱し、本箱も移動してしまったので、2つの本箱を元の位置に戻し始めました。ほぼ移動は完了し、もう少し調整したほうが良いと靴下を脱ぎ、足を踏ん張った途端、左脚のアキレス腱を断裂してしまいました。
数年前に右脚のアキレス腱を手術していただいた病院へ、今回もお世話になろうと話しましたが、津波で被災したため新患は受け入れておらず、病院から仙台整形外科病院を紹介されました。
診断の結果、左アキレス腱断裂。退院は傷が落ち着けば任意。ギブスを外すのが1ヶ月後、装具を外して歩行はじめるのが半年後と説明されました。手術は明日12日予定。手続きを済ませました。

17時16分頃余震あり。宮城野区震度4、福島震度6弱、茨城県に津波警報、宮城県に津波注意報。周辺の電気は消えませんでした。

 

412日(火) 晴れ 仙台桜の開花日

10時30分手術。局所麻酔。午前中に手術完了。特に問題なし。

今日は孫娘の幼稚園の入園式。

14時10分余震。仙台震度4、福島浜通り、茨城北部震度6弱。まるで生きものの背中に乗って生活しているようです。もう震度3ぐらいでは驚かなくなってしまいました。

 

参考:仙台市宮城野区高砂周辺の地図(クリックすると拡大します)

 

20248月22日記事公開]

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