

この記事は、2023年12月6日にお茶の水女子大学の授業(担当:丹羽朋子)で行った対話ワークショップの記録を、学生有志が編集しまとめたものです。
本ワークショップに参加した学生30名は、「わすれン!」に寄せられた4本の映像を視聴したのち、4グループに分かれて対話を行いました。参加者同士で映像の感想を共有し、その後「問い」について話し合いました。
このページでは、DVD『過去を見直して、今を見つめる』(制作:杉本健二)を観て、「震災の当事者とは?」という問いをめぐり思索した対話の記録を掲載します。

*文中の話者A〜Fのアルファベットは、ワークショップを実施した際に着席していた席順を示しています。
『過去を見直して、今を見つめる』をめぐる対話
話者B この映像では仙台の大学に通っていた撮影者が、津波被害のあった石巻出身だった大学の友人の車に乗って、沿岸部のいろんなところをめぐりながら、ずっとビデオを回しています。
はじめのうちはその友人が昔通っていた、津波で被災した大川小学校に行って、小学校時代はここでどんなことしたかといった話が進んでいく。その後に、その友人のお家を訪ねるんですよね。そこでは彼のお母さんが、大川小学校事故のご遺族の中でも、当日に何があったのか説明してほしいって訴えてる人たちと、もう諦めちゃった人たちがいるって話されていたのが印象的でした。
もう一つ印象に残ったのは、最後に車内で運転する友人と助手席の撮影者が、「子供たちにどうなってほしいか」みたいな会話をしてる時に、友人のほうが「汚い大人になってほしくない」と語るシーン。彼のお母さんはあの日、大川小で娘さんに何があったのかを知りたいと思っていて、そういう小学校側や教育委員会の対応不足を訴えてる大人たちの前で、息子であるその友人は所在なさげだったから、わりとお母さんと温度差があるように私には見えてた。でもこの最後のシーンで、息子さんもお母さんのそこらへんの気持ちをちゃんと汲み取ってるというか、思うところがあるんだなって。
話者D そう、あの場面、一瞬通り過ぎちゃうような場面で、突然ポロッてつぶやいてて、私も「え……」みたいな感じでびっくりした。
話者F えっと……撮影者の友人の方のご実家に行った時に、そのお父さんも教師をされてて、自分も当事者なのに、そういうことを市の教育委員会に訴えに行く気まずさ、みたいな話があって、東日本大震災の中では誰が加害者で、誰が被害者っていう明確な立場があるわけじゃなくて、そこに揺らぎというか、誰もが当事者であって、ある見方からは被害者だったり、別の見方からは加害者だったりする。震災をめぐるいろんな側面を全部いっしょくたにするんじゃなくて、自分はこの場面だとこういう立場だっていうことを明確にしながら向き合っていくことが、難しいけど必要なのかなっていうのが感想です。
話者E たいていは撮影者が撮影してるんですけど、ふとした時にその友人とか、友人のお母さんがカメラを回してる場面があって。
お母さんは結構強い方に見えたけど、お母さんがカメラを持っている時、亡くなっちゃった娘さんの写真を写しに行ったり、「ちょっと外行くか」って言って家の外を写したりしてて、やっぱりお母さんもカメラを持ったことでつらいことを思い出しちゃったのかな。
話者D 私は当時小学校1年生で、父が大川小学校の話をしてくれて、「こういう時には自分が正しいって思った行動をとるんだよ」って言ってたのが印象に残ってます。そういう逸話としては聞いてたけど、それが実際に起こった出来事なんだっていうのとはズレがあった。でも、映像の中のふとした日常の場面で、「あ、この人たち当事者なんだ」と線がつながったっていうか、本当にあった出来事なんだって思わされました。
話者B 私も、さっき言ってた最後のシーンで、息子さんがちゃんと考えてるんだなって感じた。
あと、草っ原のシーンがわりと多かったじゃないですか。何も知らない私から見ると、ただの草っ原にしか見えないけど、でも「そこに家がいっぱいあったんだよ」とか、「この建物はこんだけ高くて……」みたいな話をされてて。この映像作品では、そこに住んでた人と、映像を撮ってる人、そして見てる人が一緒にいるからこそ、「あ、こんな草っ原になってしまうほど全部が流されてしまったんだ」とか、被害が大きかったことがわかる。そこが効果的だと思いました。
話者E 私も、自分には草っ原で広くてきれいだなっていうような感想しか浮かばないんだけど、そこに住んでた人はもとの景色を知ってるから、なくなっちゃったのを見たときに、やっぱり経験してる人と、してない人では違うんだなと。
話者A 日和山の高台にも行ってましたね。
話者B 高台から見下ろしてましたね。
全員 (沈黙)
話者D みんなは震災のこととか、大川小学校のこととか、どういう感じで聞いてたのかな?
話者B 私は大川小学校のこと、今回初耳だったかもしれない。
話者E 聞いたことはあるけど、私も詳しくは聞いたことなかったかな。
話者F 私も初耳でした。
話者A 最後に「将来、何を展望してますか?」みたいな質問をされた時に、あの息子さんが「街づくりを勉強してる」って話されてて。街がぐちゃぐちゃになって津波でなくなった様子を見たのに、それでも「街づくり」っていう未来を展望してる姿が、なんだろう……いい話にまとまっちゃうみたいな感じもするんだけど、でもやっぱりその前向きな姿がすごく印象的でした。
話者D 皆さんはこの対話ワークショップで、なんでこの映像を選んだんですか?
話者E 他のがわからなさすぎたから。
話者A 私も、わかりやすかったから。象徴的というよりも、具体例として伝わりやすい映像なのかなって思いました。
話者D 私は大川小学校を知ってたというか、ちっちゃい時の記憶なんですけど、すごく憤りを感じた事件で、決して近くはないけど、自分にも関連ある話題だったので印象に残っていて。教訓としてずっと頭にあるみたいな感覚でした。
話者E 映像の中のお母さんのお話を聞いてると、食事の時とかはすごく明るい雰囲気なのに、いつもの明るさとは別のところで、学校の対応に対する怒りとか思ってるんだなって。やっぱり当事者の怒りの気持ちとかを、この映像で強く感じました。
話者B あの日に小学校で何があったかを求める運動に疲れちゃった人もいる、みたいな話をお母さんがされてて。ここ数年、#MeToo運動とかめっちゃあったじゃないですか。別の授業で、その運動をやってた女性たちがその後に疲れちゃって、結局運動から離れちゃったり、自分が離れたくても他の人がいるから離れられないけど、でもやっぱり大々的に運動したらその後の社会復帰もしづらい、みたいなのを聞いて。そういう「疲れちゃった」っていう人たちに、関係のない私たちでも何かできることはないかなって思いました。
話者D 忘れちゃった方が楽なんだろうな。「疲れた」って言って運動から離れた方が、見た目には震災から立ち直って前に進んでるように見えるから。
じゃあ「立ち直ること」と「諦める」ことって、何が違うんだろう?
話者F 「立ち直る」っていうプロセスの中で、諦めることで折り合いをつけるみたいな考え方になって、そうしてるうちに結果的に諦めちゃったって人もいるんじゃないかな。
その活動をやめちゃった人も本当はやめたくなかったり、当事者として発信していきたかったけど、そういうつらいことを経験して、それでまた自分の中の気力やバイタリティみたいなものを維持したりするのはかなり難しい。
それは別に震災じゃなくても日常でもよくあることかもしれないけど、震災からの復興の中でっていうのがさらに難しくさせているかな、と感じました。
——問い:震災の当事者とは?
話者D 時計回りで話します? 出身とか、どこで震災を経験したかとか言ってもらえるとわかりやすいかも。
話者A 私は東京出身で、震災経験としては揺れたなっていうのと、あとは自宅のお皿が落ちたくらい。揺れはしたけど、被害はあまりなかったっていう感じです。
で、「当事者」とは誰をさすのか……。
私は高校生まで周りはずっと東京で育ってきた人ばっかりだったから、気軽に「そういえばあの時何してた?」「あ、その時トイレにいてさ」みたいな感じで話してたんですけど。
被害をもっともっと受けている人について情報では知ってたけど、今回こういう長い映像を見るのが初めてだったので、本当に被害を受けた方の心の内とかがよく伝わってきました。
もちろん被害を受けた方が当事者だし、あと被害を受けた、受けながら今でも闘ってる人、闘えなくなっちゃった人。ちょっと何言ってるかわかんなくなってきちゃったけど、うーん、その場で経験した人と……。またあとでもう一度話してもいいですか。
話者B 私は神奈川県出身で、私も同じく「揺れたな」ぐらいで、特にそれ以外の被害はこうむってなくて。自分は震災の当事者ではないと思ってるから、「当事者」っていうのは直接的に大きな被害を、その後の生活に支障をきたすぐらいの大きな被害を受けた方々を指すのかなって思いました。
話者C 私は石川県出身で距離的に結構離れてるんで、あまり揺れを感じませんでした。3月11日に震災が起きて、その2ヶ月後のゴールデンウィークに宮城県の被災地の、なにもない海の近くにも行ったことがあって、それを見た時に、「あ、これはほんとに起きたことなんだな」って実感した記憶はあります。でも結局、その場を見て震災を目にしたけれど、震災の被災者には当たらない。直接的には被災者には当たらないけど、もし、自分の大切な人とかが被害に遭って自分もまた苦しんでるとしたら「当事者」になるのかなとか、直接的な被害はないけど苦しんでる人がいたら、それは「当事者」に当たるのかなって思いました。
話者D 私は群馬出身で、揺れた時も小学校の帰りの会の途中で、「あ、地震ってこんなに揺れるんだ!」って考えながら家に帰って、その後何回か揺れがあった時もちっちゃかった弟を守りながら机の下にいたのを思い出して。
映像見るまでは「自分は当事者じゃない、津波の被害を受けた人が当事者だ」って思ってたんですけど、この映像を見ている中で自分の当時の心境が思い出されて、「自分も地震にあって、お家に帰ってからものすんごい津波の映像をずっと、延々とテレビで見ててすごく怖かったな」とか、「計画停電とかもいろいろあったな」とか思い返されて、自分が当事者じゃないとは言えなくなっちゃったなって思いました。
もちろん、ほんとの被害を受けた人とは全然立場が違うし、その映像を見てつらくなったとかっていうことも、安易に共感してるんじゃないかっていうふうに反省することではあるんですけど、自分もやっぱりつらいことはあったんだろうなって。
自認に頼るしかないっていうか。広い意味、一般的に使われる意味だと、津波の被害を受けた方々が「震災の当事者」となるんだろうけど、その映像ですごくショックを受けたとかいろんな方がいるので、自分が「当事者」だって思ったらどうでしょうか。ざっくりとした結論ですけど。
話者E 私は当時保育園の年長さんで、東京出身なんですけど、偶然海外旅行でグアムに行ってたから揺れは経験しなくて。ただ、ホテルに帰ったらテレビでひたすら津波の映像が流れてて、その後1週間ぐらい日本に飛行機が飛ばなかった影響で帰れなくて。その後は結局おばあちゃんの家に預けられて、テレビのACジャパンの広告もあんまり見なかったので、自分からしたらすごい遠い出来事みたいな感じで、自分は絶対に当事者じゃないっていう気持ちでいるんです。で、たぶん、今回の映像の撮影者の方も、自分では当事者とは思ってないんじゃないかなと思って。やっぱり被害を受けた方とか、住宅が壊れちゃった人とか、家族や友達が被災しちゃった人が当事者っていうのかな。でも今皆さんの話を聞いて、震災の影響を受けてその後の生活に何か響いちゃった人たち、精神的にも身体的にも、その他の生活になんらかの影響があった人たちのことを「当事者」って言っていいのかなって思い直しました。
話者F 私は北海道出身で、当時は小学4年生で、先生が「地震が来た! 机とか椅子の下に隠れて!」って言って。北海道だったので地震はそこまでは大きくなかったけど、自分の中でこの「当事者」っていうのを考えた時に、あんまりその……震災と距離があったっていうのもあって、すごく曖昧というか、ふわっとした考え方なんですけど、東北に住んでる人はみんな「当事者」っていうイメージが勝手にあって。
でも、この授業とかで学んでいく中で、そういう安易な括り方っていうのは失礼だったり、あるいは冒涜だったりするのかなって。
率直な自分の考えとしてはそうだったっていうのを踏まえた上で、「当事者」はそれぞれの自認によるものだったり、あるいは被害を受けた方だったりと、様々な定義ができると感じました。
話者A あ、もう一度いいですか? 皆さんの話を聞いて、自認によるものとも思ったんですけど、映像の中であのお母さんが、「うちは妹が死んだだけだから」「もっと向こうの地域には家も家族もみんななくなっちゃった人々もいるし」みたいなこと言ってて、「うちは◯◯だけだから」っていう言葉がすごい印象に残っていて。傍から見たらご家族が亡くなってるって絶対すごい被害者じゃないですか。なのに、被害が少ないみたいな言い方をされていたので、自認でも全然違うものなんだなって。でも、それを踏まえた上でも、やはり「当事者」って言うと、なんだろう、その被害を受けた方みんなだって思いました。その自認にグラデーションはあると言えるけど。
話者F 今、社会保障について学んでいて、たとえば行政が誰かを支援するときに、ある程度対象を定めないと支援できなくて、自認に拠るとかではなく、こういう人たちが支援の対象にあたるって判断して支援物資を届けたりする。そういう行政から見たかなり恣意的な判断としての「当事者」っていうのもあるのかなって思いました。
話者E たしかに。でも、そこを定めないと効果的に支援ができない。
話者F それが本当に必要なニーズとして求められているものかどうかに関わらず、たとえば支援物資を押しつけてしまうとか、行政が必要だと思ってたものが、そこでいう当事者からしたら全然いらないものだったっていう問題だったり。それって、「当事者」っていう言葉の揺らぎからくる問題なのかもしれない。
話者B そう考えると、「当事者」という言葉自体がいろんなものを含んじゃうから、家を壊された当事者がいたり、その場にはいなかったけど精神的な被害を被った当事者もいたり、「当事者」がそもそもグラデーションであるなら、分類が難しくて微妙ですね……。
話者D どういう時に「震災の当事者」って言ってたっけ? 津波の被害に遭った方とか、他のいろんな具体的な言い方がある中で、いつ「震災の当事者」って言ってたかな?
話者E 被害を受けた方たち自身が、「当事者側からしたら云々……」みたいに使ってた記憶があります。
話者F あと海外の人から見たら、日本人全員当事者に見えてるのかなって。でも実は北海道出身だったり、石川県出身だったり、別の場所にいたら当事者とは言えなかったりっていうのも、どこから見るかによって全然違うんだろうなって思ったので、たとえばメディアテークにいらっしゃる方でも、海外から来た方から見たら「当事者」かもしれない。ご自身たちが思う「当事者」とは別に、日本人だから当事者みたいな考え方もできるかなと。やっぱり「当事者」がグラデーションであるなら揺らぎが存在する。
話者E 逆に言うと、行政から支援をしなきゃいけない当事者は家をなくしたり物資がない人たちで、心の支援をしなきゃいけない当事者は精神的に傷つけられちゃったりする可能性があるので、支援したい側からの定義によっても違うかもしれない。
話者D 外の人たちが「あなたたち当事者」っていう枠組みを押しつけると、そこが本人たちの意思とズレがあったりする。言葉って難しい。
話者B 自分で言うのも難しいですよね。「私は震災の当事者です」って、なんか難しい。
全員 うん……。
話者B 外から言うのも難しいけど。
話者F 言葉尻の問題かもしれないですけど、たとえば「自分が当事者です」って名乗ったりすること自体が責任だったり覚悟が必要に思えてしまう。そう言うことによって、言わなかったら背負わなくてもよかったものを背負ってしまうとか、そういうことを考えてしまってなかなか言えなかったりとか。あとは、震災という経験を避けたりそこから離れたりすることで忘れようとする気持ちが、「自分は当事者っていう言葉から遠い存在なんだって思いたい」と思わせたりとか、そういう面も考えないといけないのかな。少なくとも他人が「あなたは当事者です」って言うのは難しいし、他人が決めることではないかな。
話者E 私はさっき、被害者自身が「当事者からしたら」って言ってた気がするって言ったんですけど、むしろ他の人が被害を受けた人たちの気持ちを代弁する形で、「当事者側からしたらこうだと思うんです」とか、「当事者側からしたら今の政府の対応は悪いんじゃないか」とか、そんなふうに代弁する形で使われてたかもしれない。
話者F 「代弁する」っていうのも、実際にほんとにそこに「当事者」と呼ばれる人たちの意思がのっかってるのか分からないことだったりして。
話者E 勝手に言ってるだけっていうこともある。
話者F 発言が暴力性をはらんでるっていう難しさもありますね。
話者B 代弁する人もどこかしらの立場からものを言ってるって考えると、その人も当事者だし。
話者D なんか、お互いにお互いを定義しあって、結局誰もいない空集合みたいな?
話者F 社会学とかの用語で「想像の共同体」っていう言葉があるけど、みんなが「当事者」だと思ってる存在がいて、でもその実体っていうのは明確に定義されてるわけではない、みたいな。だから、みんなの頭の中にそれぞれ「当事者」っていうのがあって、それを共有して「当事者」像ができてるだけで、そこに実体がないと言うと語弊があるかもしれないけど、それぞれのものを掛け合わせた「当事者」像がある。それはかなり曖昧なもので、みんなの中で一致している、かぎかっこ付きの「当事者」っていうイメージを共有するのは難しいって思ってしまう。
だから議論する中でも、実際に「当事者」だと相手が思ってる当事者とイメージが違ったら意見が食い違っているっていうことが生じたりして、この問い自体がかなり難しいというか、自分の中ではこれは消化できないものだなって。
話者D 「当事者」って、中身をそれほどしっかりと定義しなくても、保留にしておける言葉ですよね。たとえば映像の感想を言う時とかに、結構簡単に使える言葉。
話者B たしかに、「当事者」っていう言葉を使った時点で「自分は当事者じゃないけどね」、みたいな気持ちを含んじゃうから安易には使えないですね。
全員 うん。
話者E しかも、交通事故の当事者とかじゃなくて、震災のっていうのが、特に曖昧さを増してる感じがする。法律でパキッと決められた、こういう犯罪の被害者、当事者ですよねって言われたら、まあそうかもねってなる可能性はありますけど。震災ってほんとに曖昧ないろんな当事者を含んじゃうから。
話者F 「自分のところは妹が亡くなっただけだから」っていうのが、自分よりもひどい被害を受けた人がいるのを前提とするように聞こえるとすると、自分から見て、東北の人だったり、福島とかひどい被害を受けた地域の人たちは「当事者」って思えても、その人たちはさらに自分より大きな被害を受けた人を「当事者」だと思ってる……って、なんか順ぐり順ぐりのループみたいな。だから結局、「当事者」っていうのが、いい悪いは別として、「誰かから見た自分よりも大きな被害を受けた人」という言い方ができる側面もある。
話者B 私も相馬高校の演劇「今伝えたいこと(仮)」(註:震災後に福島県立相馬高校の生徒たちが制作した演劇作品)で出てきた、おさげ髪の女の子がめっちゃ当事者だなって思って。津波で家もなくして、家族も亡くして、その後も預けられた先で親戚にいじめられちゃって、クラスの生徒たちとも折り合いがよくなくて、最終的に自殺しちゃうというのが、みんなの想像する架空の当事者の詰めあわせみたいだなと。でも顧問の先生が、その役のような生徒は実際にはいなくて、いろんな生徒の体験やニュースで見た被災者のケースを組み合わせた役柄だっておっしゃっていて、もしかしたらあれが「当事者」の一つの例なのかもしれないって思いました。
話者F あの演劇が、そういったステレオタイプに対する警鐘だったりする可能性もあるって、今話を聞いていて気づきました。
話者E 映像の中に出てきた大川小のご遺族であるお母さんが、自分のことを「当事者」と思ってたかっていうのを知りたいって思う。あのお母さん、「むしろ自分より被害が大きい家がある。うちは妹が死んじゃっただけだから」って話されてたけど、実際娘さんがなくなってるわけだし、それで自分から「当事者」だって言うのか、それとも外から「当事者」だって言われた時に反発を覚えるのか、そこを知らないとなんとも言えない。
話者B もしかしたら、そのお母さんは「大川小学校事故の当事者」っていう意識があるから、学校や教育委員会に「ちゃんと説明してください」って訴える活動をしてるのかも。
話者E たしかに、少なくとも小学校の中で不適切な対応を受けた保護者、被害を受けた子の親として、「当事者」だから伝える活動をしている。
話者D 「震災の当事者」っていう時と、交通事故の被害者、当事者って、似ているようでいて、ちょっとイメージが違う言葉な気がしません?
話者B 私は「当事者」って聞くと、「加害者」というのが強く出てくる。「事故の当事者」というと、やった人とやられた人。
話者D すごいわかる!
話者B でも、震災における加害者って誰?
今、ふと思ったんですけど、震災の加害者がはっきりしていれば、「これをした人」っていうのに合わせて「これをされた人」っていう被害者がいて、その人たちが「当事者」になるけど、加害者がいないから被害者の範囲がどんどん広がったり縮まったり、確定できないのかもしれない。
話者F 「当事者とは?」と問われないと、自分は「当事者」って誰なのかを考えることがなかったと思うので、この質問に対して誰かって答えを明確に出すというよりは、「誰なのか?」って考えるこのプロセスこそ重要なのかなって思いました。
あとさっき、自分は「当事者」には揺らぎがあるって言ってしまったんですけど、そうやって終わらせてしまうのではなくて、まずは具体的なケースをもとに、こういった対話の中で問いの答えを探したり試行錯誤しながら、「加害者」「被害者」っていう二元的な考えだけでなく、色んな視点から考えていく必要があると思いました。
全員 (頷く)
話者D 答えは……ない。
話者E あと、対話することによって反省が出てきますよね。個人的には、何も考えずに「当事者」って使っちゃってるなって、反省してます。
映像に触れて、言葉を紡ぐ——「正解のなさ」と向き合った大学生の対話の記録
①今もなお住み続けるのはなぜ?——『生きられる家(1)岡田地区 吉田さん宅』をめぐる対話
②“よりどころ”とはどんなもの?——『石と人』をめぐる対話
③震災の当事者とは?——『過去を見直して、今を見つめる』をめぐる対話
④“弔う”ってどういうこと?——『参佰拾壱歩の道奥経 抄』をめぐる対話

