この動画は、平成29年11月19日に蒲生の夜明けを撮影したものです。夜明けとともに、蒲生干潟から川鵜100羽ほどがいっせいに飛び立ち、川鵜の集団が縦列を組み、七北田川上空を旋回しながら、七北田川を越えていく。これが、被災地出身ではない私が被災地ではじめて感動した瞬間でした。
1960年代、仙台新港の建設時期から行政と浅からぬ因縁があった蒲生という土地。時を経て、その因縁は東日本大震災の土地区画整理事業という結論に行き着き、その結果、南蒲生が蒲生と呼ばれるようになり、蒲生という土地は蒲生という名前で呼ばれなくなります。蒲生ではヨソモノになる私にとっても、この事実には当惑する他ありません。街づくりの合意形成において、防潮堤建設賛成派と反対派、内陸部への集団移転派と現地再建派、さまざまな政治的な思惑が交錯し、多くの悲喜交々がありました。そして、南蒲生は人が住める土地に、蒲生は人が住めない土地になりました。蒲生の元住民の方は「七北田川の南北で明暗が分かれてしまった」とつぶやかれていました。
ただ、このような事実を知ったとて、ヨソモノの私に何が出来るのか。私は震災のとき、仙台に住んでいましたが、大切な何かを失うことはありませんでした。つまり、私は当事者ではなく、傍観者という存在であり、震災という未曾有の災厄において、自分が当事者でない以上、私は傍観者にとどまりつづけるしかない現実がありました。
それでも、そのような立場だったからこそ、見えるものはありました。被災地では、被災者に哀れみを抱くあまりに、ヨソの世界から当事者に近づき、当事者に感情移入し、その苦しさを分かち合ったつもりになって、だれかを「告発」、そして、当事者を「代弁」しようとする人が数多くいました。その人たちは、自分の「当事者意識」が、当事者からの借り物であることに気づかず、自分の立場が正義であり、公正であるという無意識の自負や自信に満ちあふれていました。私はそういう義憤にかられる人々の姿を見るたびに、私自身は傍観者に留まり続けなければならないという思いを強くしました。そう、傍観者にとどまるからといって、何もしないというわけではありません。私が先生と慕う方は、こうおっしゃっていました。
『実際に体験したことのない戦争や震災を取材する際に、傍観者は当事者に変わることができません。しかし、当事者という「弱者の優位性」を利用して他者を批判するのではなく、同じ傍観者である人々に、事実を伝えることはできると思うのです』
震災から7年弱、蒲生に住んでいた方も震災との区切りを徐々につけていくなか、この動画の撮影場所である「舟要の館」も防潮堤の下に埋まってしまいます。そんな場所から、消えゆく蒲生のために、傍観者の私に何ができるのか、何をすべきなのか、何を伝えられるのか、そう考えを巡らせながら、蒲生の夜明けに祈りを込めました。
※長浜(向洋埠頭の南の砂浜から七北田川河口まで)と呼ばれる海岸線は、外洋のうねりと仙台新港付近の防波堤の反射波によって大きな三角波が生まれるため、サーフスポットとして全国的に有名で、ここではプロサーファーによる国内最高峰ツアー「ジャパン・プロ・サーフィン・ツアー」も開催されています。七北田川河口付近は波がとくに大きくなるため、夜明けから多くのサーフィン愛好者が蒲生に足を運びます。これが、動画に多くのサーファーが映りこんでいる理由になります。
※蒲生干潟は東日本大震災によって一度消失しましたが、最近は震災以前のレベルまで生態系が回復しています。ただ、防潮堤建設によって、音に敏感なコクガンなどの渡り鳥が寄りつかない土地になっています。