フランス France
What I remember is that on the news we got to see a lot of videos taken by people of the tsunami. Then every day we would also have the number of people who were missing and the huge number was scary. It was not a huge coverage but everyone here knew about it.
私が覚えているのは、ニュースで人の手で撮られたたくさんの津波のビデオが放送されたのを見たことです。それから連日、多くの人々が行方不明だとわかり、その膨大な数は恐怖でした。それは大きな報道ではありませんでしたが、フランスの誰もがそれについて知っていました。この話がプロジェクトの一助になることを祈っています。(日本語訳)
宮城県仙台市宮城野区新田
揺れている間、泣いてる人はいたけれど私は初めての経験すぎてもはや怖さもなにも感じなかったです。ただ淡々と、泣いている友達をなぐさめながら避難していました。
無事母親に引き取られて帰る時、いつも登下校でつっきっていた公園が全部地盤沈下で沈んでいて、ゾッとしたのを覚えています。
そのまま私の記憶は夜になってしまうのですが、まず大前提として、私の地区には津波は来なかったです。むしろ震災の後1回目の新聞を見るまで、同じ宮城県にド黒い、大きな津波があったことも知らなかったんです。
多分両親は津波のことは知っていて、私と当時4歳の弟のことを気にして黙っていたんだと思います。
津波を知らなかった私は、地盤沈下や建物のヒビしか被害のない自分の家から遠い東の空に夜10時ごろ、明るい火(海岸の火事)がずっと見えていることに、地震後1番の恐怖を抱きました。
電気が復活してテレビをつけたら1番がぽぽぽぽーんのCM、2番目が津波の被害にあって遺体が転がる道を映した映像だったり、蛇口から透明な水が出てくるところしか知らなかったため、水道が復活して蛇口から1番に出てきた水の色が茶色くて悲鳴を上げてしまったり、あんなに驚いて恐怖で震えたりしたのにほとんどを忘れていて、いろんな人が言っているけれど、時間の流れが怖いというのを実感しました。
宮城県仙台市太白区長町
ほんと着の身着のまま避難してきたって人ばっかで、割とそこでことの重大さを知るみたいなところはあるかなー。
あの時期にしては珍しく雪も降ってたし。
俺も母親見た瞬間泣いたな。
あの日偶然みたいなこといっぱいあった。その日中にじいちゃんばあちゃんも含めてちゃんと安否確認できて、家にみんな帰れたのはほんと偶然だな。
親父は普段東京にいるはずなのに前日たまたまこっち帰ってきてて兄貴も普段あの時間は学校かバンドなのにあの日高校入試で学校休みでしかも一日中ばあちゃん家にいたから俺のこと迎えにきてくれたのも早かった。
この世界のどこか
僕は(掃除の時間中にサボってた罰の)ごみ捨て中で外にいたんだよね。信じられないくらい揺れて、友達と最初はふざけて、揺れてるぜ〜〜って笑ってたんだけど、(給食とか運ぶような大きい)トラックが跳ねてて、運転手の人が必死にハンドルに掴まってるの見て「やべえな」って、「校庭に行く?」って行ったら、しばらくして続々人が校舎から出てきて。よく見たら校庭ひび割れてるし、大人は携帯(当時はガラケー)のニュースで流れてくる津波の映像とかで言葉失って涙流してて(僕らは見せてもらえなかった)、小5だったけど、これ、本当に大変なことが起きてるんだって思った。雪もめっちゃ降り出してきて激寒いし、かと言って体育館は階段とか壊れてて入れなくて。すごい大変だったの覚えてる。後で話聞いたら、教室の中ではみんな机の下に潜ったらしいけど、机ごと教室の中を前後に揺り動かされたらしくて、本当に怖かったらしい。いかに普段の防犯マニュアルにない未曾有の事態だったかって、怖くなった。
ちなみに地震のあと二日三日くらいで、井戸の水とプロパンガスがある石巻の祖父の家(山に囲まれた地域)にいって過ごしてて(仙台は全部ダメだったので)、3/12とか3/13くらいだったと思うけど、復旧手伝いでじいちゃんの知り合いが働いてた埠頭に行ったのね。その時はまだ水引いてなくて、少しでも低い土地は水が溜まってて、瓦礫も凄かった気がする。これはちょっと定かじゃないけど、匂いも凄かった気がする。今思えば、僕が走った道路のそば、水が溜まってた場所に、まだ何百人も亡くなった人、もしかしたら辛うじて生きていた人がいたかもしれないと思うと、なんとも言えない気持ちになる。ショッキングすぎて、あの時の記憶って、もう9年前なのに凄くスラスラと思い出せる。
ちなみに、あの時ACの広告流れまくってたトラウマみたいな感じで、知り合いはあの曲ほんとに聴けないし少しでも口ずさむとすごい剣幕で怒られる。
あの時は、当時のイメージではあるんだけど、道が狭くて、家がすごい沢山あって、雰囲気も海沿いの家って感じですごく良くてさ、こみいった住宅街抜けて海、みたいなイメージあったんだよ。あそこは監督さんも凄くいい人だったし、人も優しい人ばっかで大好き(ほかの学校はそんなに印象に残ってるところ多くない)だったんだ、バスケの試合ない間体育館脇の遊具で遊んだりさせてくれたりして。でも、荒浜も津波すごくて、凄かったのは知ってたけど、行く機会ってあんまないじゃん。で、高校になってから、自転車で行ってみたら、もうなんていうか、知ってる場所じゃなくて。あの記憶の中の道路どこ?状態で、家なんて1軒もないし、大型トラックが沢山走ってて、気づいたら小学校ついてた。小学校も(確か)体育館とか遊具とかなくなってて、もう言葉を失うってこんな感じなんだな、っていう感じ。こんな、何年も経ったのにあの時のまま時が止まってるなって思った。
ある程度対処する猶予を感じてしまうのは一役買ってるかも。地震の時は、なんも準備できずに、ただただ全て奪われていったというか。
あの頃には完全に戻れないってそうだよな。
あんなに海沿いにばんばん家建たないし建てられないし。てかあんなご立派な堤防もあんまイメージ無いもん、これはまあ、昔からあったのか分からないからなんとも言えないけど、少なくともあったイメージはない。やっぱあの日を境に色んなことが不可逆に変わっちゃったからな。
結構大学の教授とかで震災の話したりする人いたりしてさ、ん〜、やっぱ少し違うんだよな。主観と客観ってこんなにも違うのかという。少しずつ消えつつある部分も自覚はしてるけどそれでもしっかり覚えてる事の方が圧倒的に多い。
被災地を実際に訪れるのはやっぱり他と違う。
もちろん、昔の記憶があるとすんごく衝撃あるけど、初めて見た光景があれでも、空気感はある。
宮城県亘理町
私は地震時、小学校にいました。たまたま両親が出張で近くにおらず、私は家族と合流できずに先生方と共に学校の体育館に避難しました。地震から約1時間後、津波が来ました。先生方が体操で使う大きなマットで扉を押さえてやっと、水の侵入を防ぐという状況でした。逃げるのに時間かかる子供や年配の方は狭いギャラリーに移動して、少しでも高いところにとどまり水が侵入してこないことを祈ることしかできませんでした。
その夜は余震も続いていて、一睡もできませんでした。ストレスで夜中に気を失う人もいました。
朝になり、ギャラリーの窓から外を眺めて驚きました。周囲は海に囲まれ、体育館は孤立してしまい、安全な高台へ避難する経路も瓦礫によって絶たれてしまったという話を消防団の方に伺いました。
2日間まるまる、何も食べられず水も飲むことができませんでした。その後消防隊の方々が必死で瓦礫を撤去して下さり、そこから100人以上いた避難者を1台の軽トラックで7、8人ずつ、高台の安全な避難所へ運ぶことになりました。軽トラックの荷台に揺られながら、自分が育ってきた故郷が、好きだった景色が全て瓦礫の山に変わってしまった様子を見て、涙も言葉も出ませんでした。
福島県南相馬市
当時私は福島の南相馬市に住んでました。震災後、福島第一原発の影響で家が避難区域に。それで、着の身着のまま親族の多い仙台に車で避難しました。そのまま新年度に合わせて仙台の学校に転校しました。通っていたスイミングスクールは、結局市民プールに変わって、思い出のプールはなくなりました。学校のみんなも、選手クラスのメンバーも、地元に残ったり地方に行ったりバラバラ。さよならも言えずに会えないまんまなのが少し辛かったです。自分のこと以外でも、発電所の近くに住んでいる友達は家をも失ったりしているから、心配でした。私は震災のことを風化させたくなくて、小中は復興ボランティア活動に積極的に取り組んでたよ〜。徐々に復旧はしているけど、ふるさとを失った福島の人たちが早く元の地に戻れるように、もちろん沿岸地域の方々も含めて、祈ってます。
宮城県東松島市
2011年3月11日。
私は小4で妹が年長。松島基地で働いてた航空自衛官のお父さんはたまたま休暇を取ってた。お母さんはその頃はパートしてなかったと思う。
私は元気で、あまり欠席とか早退とかしない人だったけど、その日に限って体調悪くて、ちょうどその時間は保健室のベッドで寝てた。早退する準備をして、お母さんに迎えに来てもらうように電話してもらった。妹は幼稚園が終わって、帰りの園バスに乗ってた。お父さんとお母さんは家にいた。
地震発生。
私の小学校は1〜4年生が2階で、5・6年生が3階。職員室とか保健室が1階にあった。保健室は、普通の教室よりもこまごましたものが多くて、そのひとつひとつが軽いから、揺れた時はがっしゃんがっしゃんって、すごい音だった。保健室の真ん中にある大きなテーブルの下に潜った。金属トレイの落ちる音とかが甲高くて、本当に音にびっくりした。揺れが収まってから、保健の先生と同じく保健室で休んでた5か6年生の男の子と一緒に、ランドセルを持って校庭に出た。職員室と保健室は直接校庭に出られるところがあったから、私たち保健室組がいちばん最初に校庭に避難した。そのあと、職員室にいた校長先生教頭先生、他の先生たちが校庭に出てきて、2・3階の窓から校庭を見てた先生と児童に、荷物を持たずに避難するように、電子メガホンを使って呼びかけた。続々と児童たちが先生に率いられて校庭に避難してきて、全員が校庭に集まって点呼を取った頃に、今度は次々と保護者たちが迎えに来た。
お父さんは震度5弱以上で必ず出勤しなきゃいけないから、車で自宅よりも海側にある基地にすぐに向かった。お母さんが私の迎えにくるはずなんだけど、なかなか来ない。児童の2/3くらいが保護者と帰っていった頃に、お母さんと妹が来た。先に、小学校の近くにあった幼稚園のバス停で妹を迎えにいったらしい。揺れる前にお迎えの電話をしてたから、なかなかお母さんが来なくてかなり怖かった。
近くのコミュニティセンターに停めてた車で、お母さんと妹と、海からかなり離れた山側の避難所に行った。道は全然渋滞してなかったけど、もうその時点でお母さんの携帯電話は誰ともつながらなくなっていた。
避難所に着いて部屋に入ってから少しすると、お父さんが来た。聞くと、基地の門の手前までは行けたんだけど、基地の中にいた人に戻れって言われて急いで引き返して来たらしい。
こんなに大きな地震を経験するのは初めてだったから怖かったし、家に帰れないくらいの津波なのかと思うと恐ろしかったけど、目の前に家族が全員いたから安心はしていたかな。
次の日の朝、お父さんは車で基地に向かったけど、瓦礫と泥のせいで行ける状態ではなく、車を家に置いて自転車で出勤していった。家は線路の目の前にあって、線路よりも山側にあったんだけど、津波の被害は全くなかった。線路よりも海側は膝ぐらいの高さまで水が来たらしい。間一髪。間一髪といえば、妹の園バス。もしお母さんが妹よりも先に私を迎えに来てたら、妹はまた幼稚園まで戻ることになってたんだけど、妹を降ろしたあとの園バスが津波に飲み込まれたんだって。運転手さんと先生は民家の屋根に上ることができたから助かったんだけど、もし妹がそのバスに乗ってたらと思うと、本当に恐ろしい。
そのあとお父さんはなかなか帰ってこれなくなって、お母さんと妹と数日間避難所で過ごしてたんだけど、途中から私と妹は迎えに来たおばと富谷で2日くらい過ごした。でも、やっぱりお母さんと離れているのはつらかったから、お母さんの元に返してもらった。お母さんも私たちと離れたあと声が出なくなったんだって。
お父さんはずっと基地内の清掃とか市民への炊き出しで帰って来れなかった。何かあるときはお母さん1人で家庭を守らないといけないっていうのはわかってたから、お母さんはお父さんがいない中私たちを不安にさせないようにたくさんがんばってくれた。
家族が皆助かったのはたくさんの偶然が重なったからなんだな、と何年か経ってから思った。
フィンランド Finland
I don’t remember much to be honest. Like the tsunami of 2004, the news felt distant and it was difficult to imagine. The reality only hit me when I went to Tohoku University for exchange studies
正直なところ、あまり詳しくは覚えていません。2004年の津波のように、3.11の災害は自分からは遠いもののように感じて、その実情を想像するのは難しかったです。私が交換留学生として東北大学に行った時にやっと、その現実を目の当たりにしました。(日本語訳)
東京都練馬区
震災当時、僕は都内の小学校に通う小学6年生でした。卒業式に向けた音楽の授業中、地震が発生しました。「揺れ始めたな」と思った途端、大きな揺れが襲ってきました。防音のために分厚く、鍵がかかっていたはずの扉が開いたり閉じたり、バタバタと揺れていたことをはっきり覚えています。
校庭に避難して、地区班ごとにまとまって多くの人が保護者の迎えを待っていました。僕は両親が共働きで、震災当日は2人とも仕事に行っていて家にいませんでした。マンションの隣に住んでいて仲の良い同級生と話している時に、友達の親御さんが迎えに来て、地震の情報を聞きました。友達の親御さんに携帯を借りて親に電話しましたがつながらず。また、津波が起こるかもしれないという情報もあると聞いて、親の職場が都内でも海に近い方だったので、なおさら不安になりました。
僕はたまたま祖父母が近くに住んでいたので、祖母が迎えに来てくれて、自宅に寄ってから祖父母の家に行きました。そこで見たニュースの映像は、ぼんやりではありますが覚えていて、すごく地震に対して恐怖を感じていました。
夜7時くらいになって父親から電話が入り、「帰れないけど無事」という連絡を受けました。一方で母親とはなかなか連絡がつかず、夜遅くなったので寝るように促されました。「電話来たら起こしてあげる」と祖父から言われ布団に入りました。しかし、余震のたびに戸棚や窓の揺れる音で何度も目が覚め、落ち着けませんでした。
深夜になって母親から連絡が入り、父親と同様に「帰れないけど無事」ということ知り、安心したのか気づけば翌朝でした。
翌朝、起きてから机の上に乗っていた新聞を見て、「昨日の出来事は夢じゃなかったんだな」ということを改めて感じました。
停電になったり、物が足りなくて困ったという体験がなかったのは、本当に恵まれていたなと思います。卒業式も予定通りに行われたので、大きな問題はなかったと思います。
些細なことですが、毎年行われていた「小学校の野球チームの6年生VS進学予定の中学校の野球部」という試合が無くなりました。
他に影響があったのは、翌年に中学1年生の時に行われる予定だった臨海学校が、津波の不安により中止になったことぐらいです。
物理的な影響は少なかったですが、震災までは地震が起きても「あ、揺れ始めた、早めに揺れ始めに気づいた」くらいにしか思っていませんでしたが、震災から1年間くらいは地震のたびに怖がっていました。
東京に住んでいるので、「首都直下型地震」の話を聞くたびに、「どうなるんだろうか」という不安を抱えていました。でも今となっては南海トラフの方も危ないって言われて、より一層どこにいても問題はあるんだなって感じました。
震災以降、地震のニュースなどに興味というか「知らないと」という思いがあり、大学1年生の時は、教養科目として開講されていた地理学が地震についての内容だったので履修しました。一方で、ボランティアなどには行ったことがなく、何もしていない状態でした。
そんな大学1年の冬、不思議な縁もあって福島県川内村にボランティアに行きました。何より印象に残っているのは、送られてきた救援物資を仕分けるという作業です。震災直後に送られてきた荷物は倉庫まるまる1個分。ボランティアのメンバー十数人でかなり長い時間をかけてすべの荷物を外に出し、必要なものとそうでないものに分けて、必要なものだけ倉庫に戻すという作業でした。途中で雪が降ってきて、東京にいる僕からしたらかなり寒かったはずですが、終わってみれば違う記憶ばかりが残っています。
それは、必要のないものが7、8割を占めていたということです。被災地に支援物資を送るというのは、遠い地域に住んでいる人からしたら、応援なり、支援したいという気持ちの表れだと思います。ですが、「被災地に必要なもの」ではなく「自分がいらないから送れるもの」ばかりが届けられていました。
この時、「実際に行って、自分の目で見ないと分からないことがある」ということを痛感させられました。良かれと思って、とにかく物資が必要だろうと思って送ったものは、逆に迷惑になることもあるんだと思い知らされました。
そのボランティア以降、被災地のボランティア関連のことが大学にないかを探している時に、南三陸町に行くプロジェクトを知りました。すぐに参加したいと思いましたが、1人で参加することに不安を感じた僕はクラスの友達に声をかけ、二つ返事でいいよと言ってくれた友達と一緒に参加しました。
そのボランティアでは、南三陸町では川内村とは違う問題があるんだなということを感じさせられました。
ボランティアに参加したことで問題を知った一方で、町の素晴らしさや町の人々の温かさにも触れました。ボランティアから3か月後、一緒に参加してくれた友達と、プロジェクトの中心メンバーだった先輩と3人で南三陸町に行きました。これはボランティアではなく、ただの旅行です。
震災に関して、多くのことをやるのは自分には無理かもしれないと思っていますが、せめて南三陸町について、自分が好きだと思った町についてだけは、何かしらの発信をすることや何度も足を運びたいという思いでいます。
神奈川県小田原市
当時、私は小学6年生で、震災当日の朝に病院でインフルエンザの申告を受けていました。私の両親は共働きで、震災直前は一人で高熱にうなされながら和室で休んでいました。地震発生時、遠くのほうでヘリコプターのような音がしているなぁとぼんやり思っていたら、突然、経験したことのない大きな揺れが襲ってきました。神奈川といえどおそらく震度6~5くらい揺れて、家がみしみし鳴っていて、しまい忘れていた雛人形や水槽の水、トイレの置物等ありとあらゆるものが落ちてきて、一人ぼっちの中このまま家が潰れて死んじゃうんじゃないかと、すごく怖かったのを鮮明に覚えています。パジャマ姿だったのに思わず家を飛び出してしまって、後々母に家の中にいたほうが安全だからと注意されたことだけは今でも忘れません。
震災直後、父が宮城出身だったこともあり、何度も実家に帰っては被災地に赴き写真を撮ってきていました。今回はデータが残っていた4月と8月の写真を提供したいと思います。私自身の記憶が定かではないのですが、私も父に連れられて亘理町や気仙沼に赴き、がれきの山や家がなくなり土台だけが残った更地、ぽっきりとなくなった電柱、打ち上げられた大きな船、塩害でひび割れた田畑等、悲惨な状態を目にしました。
正直当時のことで覚えていることが少ないのですが、上記の2つの記憶だけは忘れられない経験です。神奈川で3.11を経験しましたが、直後に私を被災地に連れて行ってくれた父のおかげで、同じ神奈川県民よりもより貴重な経験をしたと思います。
被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。どこで震災を経験していたとしても、経験した私たちは忘れちゃいけないし忘れられないです。大々的にじゃなくても経験していない世代には自分なりの形で伝えていかなきゃいけないな、と今回この経験を書きながら改めて感じました。今回このプロジェクトを立ち上げてくれて形にしようと頑張っているメンバーの皆さん、ありがとうございます。尊敬します。本当に応援しています。
【関連記事】
Project San-Eleven「つむぎだす 若者の記録 〜国内外の学生による10年目のダイアローグ〜」