宮城県仙台市青葉区国見
3.11の時。私は学生で一人暮らしをしていました。卒業式までもうすぐという時、震災にあいました。震災にあった時は、余震も続いていたこともあり、夜も靴を履いて寝たり、怖くて不安でなかなか寝付けなかったことを思い出します。ふと、街中に降りてみようと思って仙台駅の方に足を向けると、たくさんの人で溢れていました。 御家族・知人・友人と連絡を取るために携帯やスマホの充電をしに来ている人達。食料を求めている人達。他にも炊き出しをしていたり、声をかけていたり。倒れてしまってぐちゃぐちゃになったお店の中を直していたりする人。 たくさんの人で溢れていました。 そして、初対面の方々とお話したり、食糧を分けてもらったり……人の温かい気持ちに触れる体験をしました。 今、何が自分に出来るのか、無意識に考えることが出来た。そんな日々でした。 私は介護の職場に就職が決まっていたので、被災された施設の方々のケアが私の今のできることだと考え、行っていました。 当時を振り返れば、仕事をすることで、不安や恐怖を紛らわしていた部分もあったように思います。 支えていたつもりが、支えられてもいたなと感じている今です。とても有難いことです。 今、自分が楽しく喜んで出来ることで宮城県内で仕事をしております。 これも自分には何が出来るのか。考えるきっかけをくれた出来事であったと感じています。 悲しい出来事だった……だけで終わらせたくない。 人々の繋がりや温かさ、学ぶことがあったと信じていますし、感じています。
秋田県
あの時は、電車に乗っていました。15歳で高校受験に落ちて、それでも第一志望の高校に行きたかったものですから、高校浪人していました。2年目の入試が終わり、自己採点の結果としては余裕を持って受かっているだろうと。人生で1番浮かれていたころでした。
浮かれたノリで、同級生で1番早く高校の勉強をはじめようと、高校の参考書を本屋で買い求め、鼻歌気分で帰りの電車に乗っていた時、あの時を迎えました。
ドンと鈍い音がして、電車が跳ねあがりました。あー脱線事故で死ぬかも。せっかく受験勉強頑張ったのに、結局僕は上手くはいかない人生なんだろうなとか色々思う内に、電車は急停止。
とりあえず生きていたことに安心しました。
地震が起きたことを知ったのはそれからしばらく経ってからでした。 1時間待てど、2時間待てど電車に閉じ込められたまま。 結局4時間近く経って、電車は動かないのでみんなで最寄り駅まで歩きましょうと車掌さんが案内して回られました。
電車のドアは停電で開かない為、使って初めて知りましたが、運転席の前方には手動で開く非常口がありまして、そちらから出てハシゴで線路に降り立ちました。
既に時刻は5時を過ぎて、冬の秋田の道はかなり暗く寒いもので、線路が続く単調な道は、いけどもいけども終わりがなく思えました。後々思い返してみると、駅までは2kmもなかったかと思います。それでもご年配の方々と一緒に歩く道はどこまでも遠く感じました。
駅には母親が車で迎えに来てくれていました。家についてからも停電で、津波のことも原発のことも知ったのはそれからずっと後のことでした。
宮城県名取市
震災時小学校に迎えにきてくれたのが兄で、「あれ母は?」と思っていると、母は丁度地震の時、名取エアリ方面に車で出かけていたらしく、津波から逃げるための渋滞にハマっていたらしいんですね。でもこのまま渋滞の中にいたら津波にのまれると思った母は一か八か抜け道へ1人曲がったみたいです。それが功を成し、母は夜、無事に帰ってくることができました。渋滞中、道が2つあって、もう一つの方を選んでいたら、空港の屋上駐車場?か名取エアリの屋上駐車場?に津波から避難しなきゃいけなくなって、何日か帰ってこれなくなってたみたいです。
神奈川県横須賀市
・発生時
小学校6年生だった。卒業式の2週間位前だったかな。卒業式は通常通り行ったから。算数の授業中だった。校舎は古かったから相当揺れた。グラウンドに避難した後、余震が何度も来た。東北が震源らしいと聞いて、1年前に仙台に転校したクラスメイトのことが心配になって何人かがパニックになり始めた。そしたら担任の先生に怒られた。体育館に移動して、親が来るまで待機していた。たまたまその日は母の仕事が休みだったからそんなに待たずに迎えに来てもらえた。いつも通学路で挨拶運動をしているおじさんが「学校に迎えに行って」と呼びかけて歩いてくれていたらしい。母が中学生の兄を迎えに行こうか考えあぐねているうちに兄は歩いて帰ってきた。地域ごとに集団下校したらしい。電気は全て止まっていた。ガスコンロと水道は使えたからインスタントラーメンを作って食べた。IHじゃなくて助かったね、なんて言いながら。アロマキャンドルしかなかったから、テーブルに置いて毛布にくるまって姉と父が帰ってくるのを待った。姉は家から電車で1時間以上かかる高校に通っていた。学校の先生が車で送ってくれて、その後友人の親戚の車で帰ってきたらしい。6時間かけて帰ってきた。信号がつかない、車がごった返していたらしい。遠方の生徒は何とか車で送ってもらえたらしく、むしろ近場の生徒は学校に泊まったらしい。東京勤務の父は次の日ようやく帰ってきた。翌日、土曜日の午前に母とスーパーに買い物に出かけた。土曜日だったからか、不安を感じたからか、スーパーは人でごった返していた。昨今の状況と同じだよね。誰もが籠城に備えようとしていたのだろうか。買い占め対策で「お一人様1点まで」っていう表示がけっこうあった気がする。スーパーの従業員さんたちはいつそんな準備をしたのだろうか。流通がストップしていて割としばらく品薄だった気がする。高速道路が通行止めだったらしい。その後数ヶ月、当時は「自粛」が流行みたいになってた。昨今の「ステイホーム」的な。花見自粛しましょうみたいな。町内会の子ども会の卒業生を送る会も自粛だった。
・計画停電
電力供給が激減したから地域と時間を指定し電力供給を止めようっていう作戦。うちの町内は停電してるけど隣の町内はしてないとか、けっこう穴だらけで「無計画停電」って言われてた。2、3回うちは計画停電したかな。停電中に外を見ると灯りがついている家が見えて、なんだよって思った。春休み中だった。「計画停電」という言葉だけが使われて、結局きちんと運用出来たんだろうか。電力使用量は減少したんだろうか。
・テレビについて思ったこと
ACジャパンのCMしかしばらくの間やっていなかったのはかなりの人の記憶に残ってると思う。途中で「AC」の音声なくなったのもきっとみんな覚えてるよね。
「頑張ろうニッポン」ってどの特番も言っていた。ある被災者の方のブログの一言が忘れられない。「キレイな服着て、一緒に頑張ろうって言うけどさ、お前らには帰る家あるだろ?」。共感って“一緒に頑張る”ってなんだろうね。
・中学校の話
生徒会執行部が被災地に向けて何かしようっていうキャンペーンを始めた。生徒会執行部の先生が津波でご友人を亡くして、そこで企画が持ち上がったのかな。使っていない文房具とか古着とか集めて送ろうっていう企画が上がったが賛否両論。使い古し送られたら迷惑だろっていう意見。当時の私は何派だったか覚えてない。わりと生徒会アンチだったかもしれない。ただ、メッセージビデオ送りますって言われて、合唱曲練習して、全校集会で歌ったけど動画が音割れ酷すぎて、これ送るのかよ、学校中で反対の声が上がってた。実際に送ったかどうかは定かではない。
2019年2月、川内村で支援物資の仕分けを手伝った時、“ありがた迷惑”の意味の一端に触れて、中学の時の話を思い出した。
・いじめの問題
横浜の小学校で起きた、被災地から避難してきた児童に対するいじめ問題。いじめられた子もいじめた子も、当然なんだけど私の知らない人。報道見ただけだから。でも神奈川県で起きたってことでなんかすごい恥ずかしかった。そのニュースを見て「福島だから(仕方ない)」って言った大人を見て、唖然とした。こうやって風評被害って生まれて根付いて繁殖するんだって思った。
・原発問題
2017年:浪人時代、某予備校に通っていた時、とあるイベントに参加した。福島で活動するラジオパーソナリティと福島のこどもたちと映画制作をするプロジェクトをやっている人によるパネルディスカッションだった。印象的な出来事があった。ある男の子の発言。新潟出身で、地元には原発がある。福島の原発事故の影響で稼働しておらず、大きな影響を受けた。東京の人達はそうやって遠くの知らない土地に原発作って何も知らずに毎日使っている。どういう気持ちなんですか、と。誰も何も言えなかった。勇気を出した一人の女の子が、今まで気にしたことなかったけどこれから気にしないといけないって思った、と発言していた。浪人して上京して、原発事故のことなど過ぎ去った東京を見て、きっと彼はショックだったんだろうな。事故のことを知っていて、被災地のことを思っていても、結局東京電力のユーザーなんだよな。自分は。自分自身に何かできる訳ではないけど、その時のやるせなさは、どうすることも出来なかった。
・海外の風評被害
留学生から、日本政府は原発で兵器作ってるんでしょ的なこと言われて、唖然。英語力なさすぎて言い返せなかった。隣にいた別の留学生(理系)が説明してくれて疑問解消したのかな。とにかく悔しかった。被災地に行った経験も、原発について学んだ経験があっても、あの一瞬、たった一人の誤解も解けない私は。
・常磐線開通
2020年3月:JR常磐線が開通して、夜ノ森駅で人々が喜んでいる報道を見て、私も喜んでいた。一緒に川内村に行った友人を誘って夜ノ森まで行こうかと考えていた。となりで「誰が使うんだ。お金の使いどころ考えないと。」って言われた。信じられなかったけど、これが“行ったこと無い人”の発言だと思った。自分がなんと返したかよく覚えていない。「見てから言ったら?」とか言った気がする。
ベトナム Vietnam
2011, I was just 13 years old. I remember news about the disaster was everywhere. We, Vietnamese, felt sad, sympathy for the people there. We praised and shared thousands of stories of how Japanese behave so politely and unitedly and patiently in the middle of the disaster, like an endless line of people waiting for relief goods without scrambling, like a shop owner catered food and drink free for disaster victims. We all know about those stories, but we just “know”.
2019, for the first time I put a step on that island country. I even chose to come to Tohoku, which had been affected worse by the disaster. I was not scared, even a little. Came there with all my excitement. Sendai welcomes me with the best atmosphere, the best weather, and the best people. The peacefulness still exists, sakura still blooms gorgeously, people still live like their life is full of happiness.
I can’t say I know Tohoku, or Sendai. But there is one thing I can be sure, there is no threat waiting for you in that land.
I still remember one day, in the twilight, beside the Hirose river, one of my friends told me about his 11/3/2011 story. He said how the earthquake hit his house in Saitama, how his TV crashed on the floor, how the media was full of news about victims and damages in continuous 6 months, how Japan changed forever. Besides that river, it was just a story, but for the first time, everything became so real for me. Like “On this land, where I am standing, 8 years ago, people died, lost their families, lost their homes. On this land, where I am enjoying my longest vacation, “pain” spreads into every single corner. Earthquake rocked and stopped, tsunami swept people and houses and came back to the sea, but the loss and pain is still here, in survivors' hearts and eyes.”
I still remember the day I came to Arahama Elementary School which was flooded by a massive tsunami up to the second floor. Now it has become an earthquake memorial site, where you can see the damaged school building in unchanged form as well as large photos and documentary films showing how it looked at the time. “Shocked” can’t describe my feeling when I got there. I just felt like, I just knew that that feeling would haunt me forever.
People can share “mystery” stories about lands which haven’t recovered from the disaster, which are still closed and uninhabited after the nuclear explosion. We find those stories so interesting. But they are “pain”.
People can worry about animals and plants coming from post-disaster areas and discriminate against products from there. Their worries are reasonable. But if you can spend a few minutes researching and reading, you can understand how hard Japanese people and the government had tried to recover the damage of the disaster, you can know that products from those lands are safe and high-quality like every Japanese thing. Don’t discriminate against people there, don’t discriminate against products produced by those people. They deserve better. If possible, come there and experience that amazing land by yourself.
I love Sendai.
Not just because of how beautiful it is.
But also because of difficulties it had been through.
2011年、私はまだ13歳でした。震災についてのニュースがいたるところで報道されていたことを覚えています。私たちベトナム人は、悲しみ、そこにいる人々に同情しました。私たちは、被災者が救援物資をきちんと並んで受け取ったり、ボランティアが被災者に無償で食事を配布するなど、災害の最中でも丁寧に団結して辛抱強く振る舞う日本人についての何千もの物語を賞賛し、共有しました。私たちは皆、それらの話について知っていますが、私たちはただ「知っている」だけです。
2019年、私はその島国に初めて足を踏み入れました。震災の被害が大きかった東北に来ることを選びました。私はほんの少しも怖くありませんでした。ワクワクしながら仙台に来て、仙台も、最高の雰囲気、最高の天気、最高の人々で私を迎えてくれました。安らぎは今も残っており、さくらはまだ華やかに咲き、人々は今も幸せに満ちた生活を送っています。
私は東北や仙台を知っているとは言えません。しかし、私が確信できることが1つあります。それは、その土地であなたを待っているものは脅威ではないということです。
夕暮れの広瀬川で友人の一人が2011年3月11日の話をしてくれた日のことを今でも覚えています。彼は、埼玉の彼の家を地震が襲ったこと、テレビが床に倒れ壊れたこと、震災後6ヶ月も被災者と被害についてのニュースでいっぱいだったこと、あの日で日本がどれほど変わったか話してくれました。
あの日あの河原で彼と話すまではひとつの話だったものが、「8年前、私が今立っているこの土地で人々は亡くなり、家族を失い、家を失った。長い休暇を楽しんでいるこの土地では、「痛み」が隅々まで広がっていた。地震はおさまり、津波は人々や家を襲って海に戻っていったが、生き残った人々の心と目には失われた痛みがまだ残っている。」というように私にとってリアルなものになりました。
荒浜小学校に行った日のことを今でも覚えています。荒浜小学校は2階まで大津波に襲われました。今は震災遺構になり、被害を受けた校舎がそのままの形で残され、当時の様子を写した大きな写真やドキュメンタリーフィルムも見ることができます。 「ショックを受けた」という言葉ではそこに着いたときの私の気持ちを表すことはできませんでした。私はただ、この感情がずっと私を悩ますだろうと知ったような気がしました。
原発事故後も閉鎖され復興も進まず無人である土地についての“ミステリー”な物語を聞くこともありました。それらの話は興味深い点がたくさんあります。しかし、それらは「痛み」です。
原発事故の被害を受けた地域で育った動植物を不安に思った人々が、それらを材料に作られた製品を差別することがあります。その心配は合理的です。しかし、数分でも調査書や書籍を読むために費やせば、日本人や日本政府が復興のために懸命に努力したことを理解でき、その土地で育った製品も他の日本製品と同じように安全で高品質であることがわかるはずです。そこにいる人々や、その土地で生産した製品を差別したりしないでください。それらの製品には良い価値があります。もし可能であれば、そこに来て、その素晴らしい土地を自分で体験してください。
仙台が大好きです。それは仙台の美しさだけが理由ではありません。仙台が乗り越えた困難も、私が仙台を大好きな理由です。(日本語訳)
宮城県仙台市
私は震災当時、小学5年生で小学校の4階で被災をしました。当時、児童会で私は黒板書記でちょうど会が始まるところで黒板に議題を書いていました。地響きらしき音がした後、はじめ小さかった揺れは瞬く間に激しい揺れへと変わりました。それ以前にも何度か大きめの余震はあり、嫌な予感はしていましたがいまだかつて経験したことのない巨大でかつ縦と横が入り混じった奇妙ともいえる揺れは、嫌な想像を掻き立てました。
母は自宅に一人、父はそういえば気仙沼に出張をしていたな。
それを思い出した途端、その嫌な想像が更に膨らみ、気持ちの制御がつかなくなり、地震の揺れが更に激しくなると共に涙の制御もつかなくなり溢れてきました。周りの友達は笑っていたり、ふざけながら机に隠れている、轟音を立てながら割れていく窓ガラス、崩れ落ちる物の数々。そんな状況すらも非日常に感じ、何がなんだか当時小学生だった私は気持ちの整理すらつきませんでした。
一旦揺れは落ち着き、気持ちも落ち着かせようとした瞬間、先程の揺れとは比にならないくらいの揺れが私たちを再び襲いました。このとき、「ああ、もう終わりだ」とそう感じました。
普段行っている避難訓練のような整列なんてしてられずただひたすら階段を下り、校庭を目指しました。教室でふざけ笑ってた友達もそのときにはその異常な状況を察したのか、彼らの表情はさっきとは全く異なるものとなっていました。
地震経過から1時間半後、友達のお母さんやお父さんは続々と迎えに来るものの、一向に私の母は迎えに来ません。したくもなかった想像がどんどんと広がっていきます。「もしかしたら、食器棚の下敷きになっているんじゃないか。」「ガラスに突き刺さって動けなくなってしまっているのではないか。」そういった最悪な事態ばかり考えてしまいます。それから更に30分後、ようやく母が迎えに来てくれました。その時の喜びはいまだに忘れられません。父もその後1時間経って帰ってきました。抱擁を交わし、家族全員揃って蝋燭を立て仲良く過ごした夜は、昼の惨禍を忘れさせてくれる程でした。
ライフラインはその次の日から全て止まりました。近くの公民館へ水を汲みに行きましたが、食糧が中々手に入りません。近所のコンビニは治安の悪化により荒らされ、商品と呼べるものはそこにはありませんでした。1ヶ月後、やっとついた電気。久々にテレビをつけた時に広がる光景は1ヶ月前に感じた衝撃と同じくらい、いやそれを超える位のもので、当時の私には理解が到底及びませんでした。
韓国
震災当時小学校5年生だった私は、韓国で津波によって建物や車などが流される様子をテレビのニュースで見ていました。
学校では被災地への援助のために募金を集めたのでお小遣いを少し箱に入れて送りましたが、その頃はまだ自分が日本の、しかも東北地方で生活することになるとは思えなく、ただ隣の国で起きた他人事だと思っていました。
韓国では今まで重なった日本に対する不信が原因として日本産の農水産物の輸入を制限するべきだという声が高まり、今でも東北地方、特に福島県は、放射能被爆地域であるという認識が韓国では一般的です。たった3年前、自分の東北大学への入学が決まった時も周りの友達や親戚から心配を受けていました。
しかし、実際仙台で3年間生活し、東北地方のいろんな所を巡ってみた結果、東北地方は実は、故郷の皆が思うほど危険な地域ではないということに気付きました。
むしろ、東北地方の美しい自然環境や景色そして、震災の前後で変わったことを故郷の皆に伝えたい。といった気持ちから震災関連の活動を行っています。
宮城県仙台市太白区
私はその時、教室でタイムカプセルを作っていました。小学2年生で転校してきた私もすっかり学校になじみ、いよいよ卒業というタイミングでした。学級で一人一枚デザインした卒業式までの日めくりカレンダーが毎日、数を刻んでいました。地元の中学校とは別の学校に行くことが決まっていたので、一人違う場所に通うことへの寂しさと期待が入り混じる冬でした。そのタイムカプセルは、当時の担任の先生と同じ「25歳」になったら開けられるというものでした。各自がジャム瓶や飾りを持ち寄り、未来の自分に向けた手紙や折り紙を入れて、時が来たらあけようというものです。私は後ろの方の席で、隣や前の席の子とおしゃべりしながら手紙の入ったジャム瓶を飾り付けていました。
和気あいあいとした雰囲気の教室が一変したのはその時でした。いわゆる「地震慣れ」していた私たちは最初はさほど気にしていませんでしたが、すぐにいつもと違うということに気がつき一斉に机の下に隠れました。近くに座っていた体の大きな男の子は、机の下に入りきらず頭だけは守っていました。普段経験する小刻みな揺れとは違い、長く、大きかった。教室ごと揺さぶられている感じ。ガシャガシャとものが落ちる音とともに、教室の蛍光灯が点滅し始めた時、恐怖を覚えました。蛍光灯が消えかかる中、ふと顔をあげた時に見えた担任の若い女性の先生のこわばった表情も、書きながら思い出しました。電気はある瞬間を境に完全に消えました。
どれも断片的で、実際それがどれくらい長かったのかはどうしても思い出せません。
揺れが収まった後、荷物を全て置いたまま校庭に避難するよう指示が出されました。教室からランドセルを持っていこうとした男の子を注意した記憶があります。激しく泣いている子もいれば、まだ笑っている子もいました。自分がどうだったかはよく覚えていませんが、同じ学校に在籍していた弟のことは心配でした。
校庭には長町の職場から母親が迎えにきました。液状化の被害が大きかった長町では母の職場も例外ではなく、激しい揺れが襲ったといいます。揺れによって勤務先の建物の窓ガラスが割れたそうで、その破片が体に刺さった傷がついていました。父はなかなか帰ってきませんでした。当然電話も繋がらなかった。確か、後から知った話ではTwitterだと連絡つくのが早かったらしい。でも当時はガラケーだから今ほど普及していなかった。どれくらい遅かったかは覚えていませんが真っ暗になってしばらくした後、父は仙台市中心部の方にある職場から数時間かけて歩いて帰ってきました。新幹線が止まったために帰れなくなった、福島が自宅の社員の方も私の家に泊まりました。
水、電気、ガスは全て止まりましたがガスバーナーが家にあったのでそれを使って食事をとることができました。外の明るさだけが頼りの電気のつかないコンビニ店内では、礼儀正しく皆一列に並んで、「一人何点まで」も守っていましたね。優しい空間だったと思います。
その後、近所の公園が瓦礫置場になりアスベストが発生しているなんていう話もされるようになりました。原発の放射能の話もあり、何が正しい情報なのか全くわからない中、外に行くときは必ずマスクをしていました。数日後、私は北海道の祖父母宅へ家族で避難しました。青森までは、バスと鈍行列車で乗り継いで行きました。1ヶ月離れていたためガスの復旧などには立ち会えていません。卒業式にはいけませんでしたが、話によると規模縮小で行われたようです。練習していた6年生からの言葉などはなかったと聞きました。宮城に戻ってきてからは地盤の強い別の町に引っ越したため、あの日以来会っていない友人はたくさんいます。
2年後、タイムカプセルの瓶を開けて小学校最後の授業を思い出す時、必ずあの日の揺れや暗さもともに思い出されるのだと思います。私は、幸いにも大切な人を失う経験はこの震災でありませんでした。私の体験は他の誰かにとって慰めにも救いにもならないと思います。こういう記述が読んだ人を傷つけてしまうのではないかという恐怖もあります。今回、自分が書くことで初めて思い出したことがたくさんありました。自分は大きな被害に遭っていないから語ってはいけないと思い出すこと自体やめてしまっていたことに気づきました。5つ離れた私の弟は当時小学1年生でしたが、はっきりとした記憶はないようです。そこから10年も経っているのですから、おそらくこの体験談の多くの書き手である現在20代の人々が記憶を語れる最後の年代なのではないかと思います。その人たちが震災と向き合うことで、これから東北の町が立て直されていくと信じたいです。
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