仙台市太白区向山から霊屋下へと続く坂道、通称「鹿落坂(ししおちざか)」に鹿落旅館(ししおちりょかん)はありました。
3月11日の震災により、裏の崖から崩れた岩が旅館を直撃し、旅館の3分の1が倒壊。残りの建物も「くの字」に曲がる大きなダメージを受けました。倒壊した旅館は、旅館前の鹿落坂を塞ぎ、震災から1ヶ月以上経った4月下旬まで通行不可の状態が続きました。
■震災直後の様子
■震災当時の状況
※2012年11月24日に行われた3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクト 公開サロン「みつづける、あの日からの風景」に、観覧者としてお越しいただいた鹿落旅館ご主人に震災当時のお話を伺いました。
聞き手:佐藤正実さん(NPO法人20世紀アーカイブ仙台)
[遠藤さん(以下、遠)]初めまして、鹿落旅館の三代目の遠藤光春と申します。こちらが元女将の、私の母親の遠藤敞子と申します。
[佐藤(以下、佐)]この間お話を伺って、この場所は車とかバス、沢山通るとこだと思うんですけども、地震のあった時はいかがだったのですか。
[遠]そうですね、主要道路じゃないですけども、愛宕橋を迂回するにはこの坂が主要道路になるので、渋滞してもう大変だった。(倒壊した建物が道を塞いでいたため)早く通してくれということは皆さんに言われました。耳にタコができるくらい言われたんですけども、私どもではちょっとどうしようもなかったものですから、やりきれない気持ちでいっぱいでしたね。
[佐]遠藤さんは3月11日の地震の際は、旅館の中にいらっしゃったんですか?
[遠]はい、旅館の中におりました。あの時は、以前仲居さんで働いていた方がパートで来ていました。お客さんも1人いたんですね。実はそこ(崩れた旅館)に生き埋めになっている状態でした。私、今は太白区消防団八木山分団の水防部長をやっていますけれども、その時は市民救急部長をやっておりました。それですぐ助けに行こうと思ったら、3月11日の1回目の地震で飛び込もうと思った瞬間に旅館が崩れ、何秒か遅れていたら私今ここにおりません。それでもう、すぐ助けに入りまして、そこから救出活動が始まりました。無事救出はしましたので、幸いでしたけども、誰も怪我なく。それが本当に不幸中の幸いでした。
[佐]その方は何時間後ぐらいに救出されたんですか?
[遠]当日なんですけど、結構寒さとか、水分補給とかですね、消防職員の方にも駆け付けて頂いて、ライフラインが全部なくなったものですから、直接車で八木山出張所に駆け込みました。そしたら所長が、それじゃあすぐ行くってことで。生き埋めになったのが角田から来た80歳のおばあさんなんですよ。そんなもんですから、これはまずいと。夜雪降ってきましたよね、あの時はもう寒さで大変でした。救出したのはもう夜中ですね。
[遠藤母]旅館裏の崖が落ちてきたのですが、その崖が上の料亭の土地なんです。それでうちでは片づけられないけれど、みなさん早く片付けてくれって。でもうちではなかったんです。普段は、丁度その崩れたとこで仲居さんが休んでいたんです。その日は18時から25人の宴会があるので、仲居さんは台所の方にいたので助かったんです。それだけは良かったと思っています。
私は、地震の時はそのすぐ上に整骨院に行ってて、ベッドに上がろうとしたとき地震があって、すぐベッドの下に入れられた。そしたらなんだか鹿落が落ちたっていうから。外から聞こえてくるんだけど何が落ちたか分からない。もう来てみて唖然としました。部屋も曲がってね、旅館全体がくの字に曲がったんだね。電気も、広間は4つあるんですけどそれも2つずつ、こう、なんとも言えない。
■往時の鹿落旅館
【参考資料】『河北新報』2011年5月28日夕刊1面