はじめに
荒波をはるかに見渡す「なぎさ」を歩けば、道はすぐさま「峠」を目指して険しい登り道をたどります。リアス式海岸に縁取られた三陸を旅することは、その道ゆきを繰り返すことに他なりません。平坦な道のりに身をまかせて歩くことは、三陸では難しいことなのです。そのことは、一方で三陸がこれまで何度も大きな災害を乗り越えてきた歴史の歩みと、私には重なって見えます。
今回、わすれン!のご担当者より機会を得て、私がこれまで私的に撮影した三陸沿岸部の写真をご紹介させていただけることになりました。これらの写真はもともと、主として仕事の合間に写していた何気ない風景であり、初めから誰かに見せようと思って撮影したものではありません。それに私はずっと仙台で暮らしていましたから、これらの写真や文章を目にして、実際にそのまちに暮らしている方やかつて暮らしていた方は「いやいや、おらいのふるさとはそんなところでねっど!」と不快に思われたり、間違いを指摘されたりすることがあるかもしれません。
それでもこれらの写真をご覧いただこうと思ったのは、東日本大震災を経て沿岸部の風景があまりにも大きな変化を遂げてしまった現実に、私自身が大きな危機感を抱いているからです。当初「復興五輪」と言われていたオリンピックの開催に向け世論が沸く中で、それに抗するように「被災地」と呼ばれるようになったまちの「震災前後」の姿を示すことは、もしかしたらこれまでの復興のあり方や、いまの社会のあり様をいま一度、問い直すきっかけになるのではないか?そんな期待を今回の公開に込めることにしました。
また失われた被災前の街並みの記録が意外なほど残されていないことを知り、未来を生きる若い人にもその姿を少しでも、それこそ1枚の写真の分だけでもよいから知って欲しいと言う思いもあります。
ここに写された東日本大震災前の風景も、実は明治三陸大津波や昭和三陸大津波、チリ地震津波の悲劇を乗り越えて、当時の人たちが苦闘の末に取り戻した暮らしの風景に他なりません。不撓不屈の精神で三陸に営みの灯火を守り続けるみなさん心からの敬意を込めて、拙いながらも何枚かの写真をご紹介させていただきます。
雄勝の道ゆき1「峠の向こう、雄勝石のまちなみ」
今回、紹介させていただく雄勝もまた、峠に囲まれたまちです。しかもその峠は高く険しく、仙台からは一旦、北上川の河口近くに出て釜谷峠を長いトンネルで越えていくか、女川まで出て、国道398号線を北上するかのどちらかのコースを用いて遠回りしなくてはなりません。石巻市から硯上山(けんじょうさん)を越えていく道(県道192号線)もありますが、大変険しい道で震災前からあまり使われることの少ない道でした。
今では「石巻市雄勝地区」と呼ばれますが、2005年に合併の道を選ぶまでは「雄勝町」という独立した自治体でした。静かな雄勝湾ではホタテを主とする養殖が盛んで、沖合の漁場からは豊富な水揚げがありました。そして何より、この土地で産出される雄勝石を用いた雄勝硯(すずり)は室町時代以来600年の歴史を誇る銘品で、1985年には国の伝統工芸品として指定を受けるなど、全国トップクラスの品質とシェアを誇りました。また、近代以降は建築物の屋根に葺くスレート材としても雄勝石は重宝され、初代東京駅駅舎や旧法務省本館など、全国のあらゆる公共建築で用いられました。
雄勝近郊の沿岸部や北上川近くの内陸部では、一般の民家でも屋根材や壁面材として雄勝石が盛んに用いられてきました。震災前の雄勝町中心部には多くのスレート建築が立ち並び、うろこ状の屋根や壁は他の土地には見られない、独特の景観をつくり出していました。それらを眺めて歩くだけでも、私には楽しい小旅行の道行きでした。
正直、大きな峠に囲まれた浜にこのような活気のあるまちがあることに、初めて雄勝町を訪れたときは驚いたものでした。中心部には水産加工の工場や旅館、食堂、銀行、病院、スーパー、コンビニなどが立ち並び、峠の向こう側に陽が隠れる夕刻にも、石巻から通うバスにはたくさんの人の乗り降りがあったことを覚えています。いかにも三陸らしい暮らしの灯が、雄勝には満ちていました。その風景にひかれて、私は仕事以外の機会でも雄勝に足を運ぶようになりました。