語り手:中山奈保子さん/進行・聞き手:佐藤正実さん(NPO法人20世紀アーカイブ仙台)
■自宅階段の最上段まで上がった泥水が一旦引いた時(この後また2階まで浸水)
[中山さん(以下、中)]石巻から来ました中山です。石巻のどの辺に3月11日は住んでいたかというと、日和山の麓に日本製紙の工場が広がっていて、あの辺は石巻工業港というんですが、あそこから200メートルくらい離れた所の住宅街に自宅がありました。家族は私と、会社員の主人と、当時1歳11ヶ月と5歳の娘の4人家族です。3月11日の当日、主人は仕事に出ておりましたので、私と子ども2人で3月11日14時46分を迎えました。やっぱり津波の被害がありまして、自宅も全壊となって住めなくなり、4ヶ月間仙台市、富谷町、塩釜市、親戚の家を転々する避難生活をしました。8月中旬に仮設住宅が当たって、1年間入居して、その後被災した自宅を直すという決意をして、今は被災した自宅をすっかり修繕して、そこに家族4人で住んでおります。
震災当日は自宅にいたので津波警報も全く聞こえない、電気もないから何も情報がないという状況で、外の方を眺めていました。15時15分くらいだったと思うんですが、黒いペンキをざばーっと流したような津波が迫ってきて、そこからわずか3秒くらい、数える間もなく庭に停めてあった車2台が流されていって、それを見た瞬間2階に駆け上がって私たちは難を逃れました。そこから、「どうしようこの水、どうしようこの水」ってずっと眺めていたんです。16時5分くらいに一旦引いた、っていう時に撮影したものです。「こんな写真よく撮ったね」ってよく言われるんですけれども、あのとき何で撮ったかな、って色々思い出してみるんですが、理由は1つでした。留守中の主人に、ここまで水が来たよ、っていうのを知らせるがためにとった写真です。うちの主人はどうしても仕事柄家にいることが少なくて、子どもの行事や成長の姿をなかなか直接目に見ることが少ないものですから、写真に撮って、帰ってきたら、今日ね、こんなことあってね、っていうことを知らせるっていう習慣が私の中にあって、この時もそういう習慣から、何の怖さもなく、よし証拠を残さなきゃ、ということでこの1枚を撮影したんだと思います。
■やっと笑ってくれた
[中]4月19日って言うと、自宅近辺にやっと車が通れるようになったという時期でした。瓦礫で道路が塞がれておりましたし、なかなか水が引かない界隈でしたので、やっと車で家族で自宅を見に行くことができたのがこの時期だったと記憶しております。どうしてこの写真を撮ったかといいますと、この写真の子どもたちはにこにこ笑っているんですけども、実はこのにこにこ笑顔にたどり着くまでが大変だったんです。瓦礫で臭いし怖いし、風が吹くとすごい妙な音がするし、家は揺れるし、とにかく汚いし。子どもたちは自宅に行った途端、「もうここには帰りたくないー。ママもうおうちに帰ろー。もうここは嫌だよ、臭いよ、怖いよ」って言って、私たちが瓦礫を片付けようとしても片付けさせてくれないでぎゃんぎゃん泣いてたんですね。でも片付けていくうちに少しずつ、ちょっときれいになったら、「ママやっときれいになったね。ああよかったー。おもちゃちょっと見えてきたー」って言って、やっと笑ってくれたときの写真がこの写真になります。やっと笑った、良かった、というほっとする私の気持ちとこの写真が、撮影の気持ちは一致すると思います。
■更地になった自宅周辺で自転車に乗る子どもたち
[中]随分時間が経って2012年の3月14日になります。自宅を直そうと思う決意をしたのが2012年1月末から2月でした。そこからまた1ヶ月経っているんですけれども、1回津波が2〜3メートル来た地域で、ここら辺は1,000軒くらい家があったんですけれども、周りの家々もみんな更地になってしまって、築5年から10年くらいまでだとかろうじて解体しないで残っている状態です。もう本当に更地が広がった景色になってしまったんですね。それで自分たちは、「よし、家を直してまた暮らしを再開する」と決意したものの、瓦礫を撤去すると「お宅いつ壊すの?」って聞かれてしまったり。あと、せっかくきれいにして翌日も「さあ片付けよう」と思って朝車で来てみると、近くに瓦礫が投棄してあったり。せっかくここに住もうって決めたのに、気持ちが揺らいでしまうという時間を私は経験していたんですね。そういう中でも、一度決めたことだから、お金も動きだしているから、前に進むしかないと思って一生懸命家を直す方向で夫婦二人で頑張ってたんです。
家を直している間、子供たちを暇つぶしに遊ばせるんです。こうやって更地が広がったので、自転車漕ぎしたら楽しいよ、広いから大騒ぎしても誰も文句言わないし、って言って、こうやって広い所に連れてって自転車を漕がせて、後ろから私はこうやって見ていたんです。これを見ていたときに、嬉しいな、こんな変わってしまった風景の中でも、子供達すくすく成長していくな、そんな気持ちを込めて撮影した写真だと思います。
[佐藤さん(以下、佐)]はい、ありがとうございます。中山さんの写真っていうのは、今回5枚のうちの2枚が子どもたちが写る写真を使わせてもらっています。昨年、定点観測の写真の写し方の話題が出たときに子どもたちを入れて、子どもたちの成長が定点観測として使えないか、そういう風に表現できるんではないかという話が出ました。中山さんの写真をこうやって見てると、子供たちの成長ぶりっていうのと、時間の経過っていうのがよくわかる写真だなと思って、この写真を使わせていただきました。
■子どもたちを連れて自宅2階に避難。ベランダから見た津波
[中]上が、『3.11キヲクのキロク(註1)』に投稿させてもらった写真です。津波が来た4時5分頃。1番目の階段のところで撮影した写真を撮影したときとだいたい同じ時間に撮った写真です。海側の方を眺めて自宅のベランダから撮った写真です。下が同じ場所から3ヶ月後に撮った写真。3ヶ月後に撮った写真、自分で残していると思わなかったんですけども、『3.11キヲクのキロク』が出てから定点観測という言葉がツイッター上に流れてきて、私もこれやってみようと思って、同じ場所から何回も定期的に撮影をしています。ただ、定点観測っていう言葉が出てきた時に、私もやってみたと。でも、全然景色が変わらない。むしろ私にとって定点観測は必要か、と思って撮影してました。今もそうです。さっき子どもたちが自転車に乗って、後ろ姿を私が撮影した写真があったが、あの写真を今同じ所から撮っても、子どもたちの補助輪が取れたぐらいで、あとはまったく変わらない。定点観測は自分にとって必要か、って未だに少し思っています。みんなの街の景色は変わっていっていいな、うちなんかどんどん更地になってくだけだし、っていう想いが強かったです、むしろ。一時期、記録をやめた時期もあります。でも今も同じ場所からたまに撮ってます。
そして、「今日はこんな感じ、ちょっとここ変化あったよ、今日も撮りました」っていうコメントを添えてfacebookかなんかで発信をする。そういうことをずっと続けていくと、この場所を意識し続ける母親として、共感をしてくれる人がすごく現れてきている。2年3年と時間が経つにつれ、こうやって私も実は同じ場所から撮ってみたらこんな変化があったの、って身近なママ友達から、私もやってみたわ、っていうような声を頂く。そして、別の場所だが、その場所を見続ける母親として写真を見せ合ったり。本当は忘れちゃいたいんです。写真なんかもう見たくもないし、定点観測も辛いなと思う時はあるけれど、そうやって見続けてきた人同士として、最近になって心を打ち明けて「あのときさ……」とか、話しています。こんなこと思い出したくないんだけど、やっぱり子どもたちに伝えたいよね、って言う気持ちが、定点観測をし続けてきて、発信し続けてきて、やっと最近になって感じられてきたというのは、今皆さんの話を聞いていてひとつ気づきました。
あと、この写真とは話題が逸れると思いますが、『3.11キヲクのキロク そしてイマ(註2)』が発行されて私の手元にも届いて、ものすごく感動したというか、言葉にならない何かがありました。佐藤さんに電話をしてものすごく困らせてしまったということがありました。一番最初に開いたのがやはり石巻のページで、言葉にならないものが差し迫ってきました。今冷静になって考えてみると、なんで感動したかというと、振り返る暇もなくここまで来ていたということと、人ってすごい、街ってすごい、ここまで変わるんだということを、定点観測の2冊目の方から感じたというのが、私の今の強い想い、この活動に共感するという想いの大きな1つです。私の場合、今子育てをしているから、子どもたちにどう残していくか、何を残していくかが、一緒にこういう活動をしている母親同士の共通のテーマ。定点観測は私にとって必要のないもの、邪魔なものと考えるときもあったけども、人のパワーとか、街の変化していく様子とか、そこから人の知恵とか勇気とかつながる力とか、子供たちに十分伝えられるのではという風に定点観測の活動から感じている。私も意味もないという風に思った写真なんですが、瓦礫がきれいに片付けられているじゃない、どうやって片付けていったんだろうね、っていうのを大人になった子どもたちに伝えるために、ずっとずっと残していきたいなと思っています。
[佐]ありがとうございました。3月11日の定点を観測する、撮り続けるというのは、1年とか2年で恐らく終わる話ではないと思っています。2年間で変化する所もあれば、今の話のように変化しないところもあったり、むしろ後退しているというか、そういった様子も見えたりする。もちろん見たくないってこともあるでしょうし、撮りたくないってこともあると思う。ただ、5年とか10年、20年、もしかしたら50年、100年、その時は同じ人が撮れるとは思えないけど、それを撮った時に初めて変化が分析できるのではと思っている。これからなんだろうなという風に思っています。
註1:NPO法人20世紀アーカイブ仙台が発行した書籍。約150名の市民から提供された写真18,000枚の写真と提供者の震災体験談が綴られている。
註2:NPO法人20世紀アーカイブ仙台が発行した書籍。『3.11キヲクのキロク』で撮影された震災直後と、その後の風景をおさめた写真集。
*この記事は、2013年4月30日にせんだいメディアテークの考えるテーブルで行われた『3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクト公開サロン「みつづける、あの日からの風景」』で、中山奈保子さんがお話された内容を元に作成しています。
当日の様子はこちらからご覧いただけます。
《考えるテーブル レポート》→http://table.smt.jp/?p=2846#report
【3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクトとは】
このアーカイブ・プロジェクトは、東日本大震災で被災した宮城県内各市町の震災直後の様子、および震災から定期的に定点観測し復旧・復興の様子を後世に残し伝えるために、市民の手で記録していくものです。これから市民のみなさまから記録者を募っていくとともに、その情報交換・活動の場を公開サロンとして定期的に行っていきます。これらの定点観測写真は、NPO法人20世紀アーカイブ仙台とせんだいメディアテーク「3がつ11にちをわすれないためにセンター」で記録・公開し、市民参加で震災を語り継ぐ記録としていきます。
NPO法人20世紀アーカイブ仙台
公式Web:http://www.20thcas.or.jp/
【考えるテーブルとは】
人が集い語り合いながら震災復興や地域社会、表現活動について考えていく場を「考えるテーブル」と題して、せんだいメディアテーク、7階スタジオに開きます。トークイベントや公開会議、市民団体の活動報告会など多様な催しを行っていきます。