語り手:松村翔子さん/進行・聞き手:佐藤正実さん(NPO法人20世紀アーカイブ仙台)
■自宅のアパート
2011年3月19日 宮城県多賀城市宮内 自宅のアパート
[佐藤さん(以下、佐)]松村さんに5枚の写真をご紹介頂くのですが、私自身はお話をちゃんと聞いていないんです。今日初めて写真を見てお話を伺うので、少しヒアリングのような感じでご紹介いただければと思います。よろしくお願いします。
[松村さん(以下、松)]これはですね、住んでいたアパートです。このアパートの1階に住んでいました。場所は、多賀城のジャスコ(スーパー)のすぐ脇なんですけど。引っ越して半年経たない、数カ月しか住んでいない家でした。2階まで水が来たみたいで、結構ひどい感じでした。建物は残っていたけど、中がもう、水が通り抜けたんだなみたいな感じで、ジャスコの商品とかが家の中にたくさん入ってきている感じでした。
[佐]そうですか。これ、車が止まっているのは、塀か何かあるんですか、ここに。
[松]塀はないです。車も、どこからともなく流れて来たのが詰まっているんだと思います。
[佐]じゃあその家の中の様子になるんでしょうかね。
■部屋の中の様子
2011年3月19日 宮城県多賀城市宮内 自宅内部
[松]そうですね、家の中です。結構ひどいので、何かこう、物を取ってこようとか、家を復旧させるために足を運んだりということはほぼしなかったですね。私だけではなく沿岸部の方も、もう無かったことにしましょう、みたいな感じで、終わりにしました。
[佐]松村さんは震災の時はどちらにいらしたんですか?
[松]その時は、東北歴史博物館に勤めていて、そこで働いている時に地震が起きました。街なかでもないので、そんなに情報がなく、津波の情報もなかったので、何が起こっているか、多賀城からはよく分からなかったですね。津波の存在も、博物館の近くの高崎中学校に夕方になるとたくさんの人が沿岸から避難してきて、「津波来るらしいから来たんだ」っていうことで。博物館の駐車場にもたくさんいらっしゃったんですけど、うちの博物館は避難所ではなかったので、受け入れることがきでなくて、お手洗いだけ貸しながら開けていたんです。利用者さんもその時はたまたま閑散期だったので少なく、子どもたちもよく遊びに来るんですけど、2人の女の子が、夕方お母さんが迎えに来て、引き渡して、という感じに過ごしていました。
[佐]松村さんはご自宅には、その日に戻ったんですか?
[松]戻ってないですね。ちょっと待って下さいね、覚えてないので……戻ったのは、いつだろう。3月18日ですね。
[佐]3月18日にご帰宅。じゃあさっきの写真は戻った翌日なんだ。
[松]もしかしたらもうちょっと経っているかもしれないんですけど、家の辺りが立ち入りができなくてですね。震災翌日は、実家が多賀城市の笠神という所にあったのでそこに帰って、アパートを見に行こうと思ったんですが、45号線にまだ出られなくて、向こうの方から、ジャスコから避難してくる人が、ゴミ袋を足に巻きつけて、陸に上がってくるみたいな感じのが12日だったんです。だからもう先には行けなくて、自衛隊の方もボートを出して救出に向かっていて、というところで、あぁ、まだ行けないな、ということで。行けるようになったのが多分そのぐらいでしたね。
[佐]じゃあその3月18日あたりにご自宅に帰ってこられて、さっきのようなものを目の当たりにして。
[松]そうですね……。やっぱり私も津波という意識もなかったので。博物館で上司に「お前の住んでる辺り冠水だぞ」と言われて。その時は全然(被災しているという)感覚がなかったので、「かんすい」ってどういう漢字を書くんだっけ、とか思うぐらい分からなくて。栗原市から来ている同僚がいたので、「帰れないからうちに泊まりなよ」って言ってるぐらいだったんですよ。こんな状態なのに。それぐらい状況もわかっていなかったんですけど、1回来てみたかったというのもあるし。この時は、罹災証明書を持っているといろんな待遇があって、いろんな支援を受けられるということで、被災したという証拠に写真とかを窓口に提示しなきゃいけないみたいな情報が流れていました。それで、たまたまデジカメは手持ちで持っていたので、友達に付き添ってもらいながら見に行ったという感じでしたね。まだ電線とかが、わーっと下に垂れて落ちているような、危ない感じでした。
[佐]この写真は、そういう目的で撮られたんですか?
[松]そうですね。そのために。
[佐]被害状況を撮ったのがこれ。
[松]何か記録しようとか、撮っておかなきゃという意識は全くなく。実務的な。
■多賀城駅前で開かれていた市
2011年3月23日 多賀城市中央2丁目 多賀城駅横
[松]これはですね、市ですね。この日、電車は復活していないんだけど、仙台方面にバスが出始めて。何もないから、バスに乗って下着とか色んなものを仙台の街に買いにいこうと。仙台の街はもう商売を始めているようだということで、行こうとした時に、詳しくは分からないんですが、駅前で物販してたんですね。食べ物とか、衣類とか、物資の受け渡しとか、あとお店が出てたりだとかありました。
[佐]これ仙石線ですよね?
[松]そうですね。仙石線で、この写真の右手の方に駅があります。
[佐]この多賀城駅からバスが出てたんですか。仙台まで。それで仙台まで行って、買い物とかしてきて。その前にじゃあ、これを撮った。
[松]そうですね。
■避難所にボランティアが設置した「こどもランド」
2011年3月30日 多賀城市中央2丁目27-1 多賀城市文化センター
[松]多賀城市文化センター避難所の、大ホールの楽屋にできた「こどもランド」っていう託児スペースですね。文化センターの隣に東北学院大学があるんですが、そこの学生たちが中心になって「こどもランド」を設置したんです。避難所で子どもがうっとうしがられたりすることもあったり、お母さんも家を探しに行ったり食料を探しに行ったりしなきゃいけないときに、子どもたちを「こどもランド」で遊ばせていました。仙台のお菓子屋さんがお菓子を持って来たりだとか、写真の時は絵本の読み聞かせを多賀城のボランティアグループのお母さんたちがしていました。もうこの時には、何かしたいと思って動ける人は色んな活動も行っていました。私も焦っていたこともあってどういう活動が今あるのかというので、こちらの状況を見に行ったという感じですね。ちょうど塩釜の仲間と文房具を配布する活動だとか、ワークショップを子どもたち向けにやる活動を始めようということで、多賀城の情報が塩釜の友人の中には少なかったので、情報収集がてらニーズを調査しながら回っていたというのもあります。なんですかね、なんかしなきゃと、焦って、すがるようにいろんな所を見に行くみたいな気持ちでしたね。
[佐]ここ以外にも随分あちこち回られたんですか?
[松]そうですね、多賀城の小学校ですね、特に。結構見に行って、文房具を届けたりすることはできました。天真小学校というのが多賀城市の丘の上にあるんですけど、そこが大きい小学校で、しかも、先ほどの津波で被災した多賀城ジャスコ周辺地域の人たちが、そこにいたので。
■総合体育館の避難所一角で開催した工作教室
2011年5月1日 多賀城市下馬5丁目9 多賀城市総合体育館
[松]これはですね、携帯とかが使えるようになった時に、県外の友人が、「何かするよ」っていう風にたくさん連絡をくれたんです。写真の手前にいる山下さんが、教育関係の大学でいろいろ学ばれて児童館とかに勤めていた方なんですけど、その方が避難所の子どもの遊び場づくりの一環で、工作教室をしに来て、一緒にやりましょうと言って。多賀城の総合体育館という所も避難所だったんですけど、総合体育館の避難所の一角でさせてもらえることになって、工作教室をしているところです。実は今も月1回仮設住宅を回っています。手前にいるチェック柄の服を着ている男の子2人は、今も月1回会って遊んでいるっていう感じです。
[佐]じゃあその活動は今も続いているということなんですね。ありがとうございます。
*この記事は、2013年10月30日にせんだいメディアテークの考えるテーブルで行われた 『3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクト公開サロン「みつづける、あの日からの風景」』で、松村翔子さんがお話された内容を元に作成しています。 当日の様子(考えるテーブル レポート)→http://table.smt.jp/?p=6738#report
【3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクトとは】
このアーカイブ・プロジェクトは、東日本大震災で被災した宮城県内各市町の震災直後の様子、および震災から定期的に定点観測し復旧・復興の様子を後世に残し伝えるために、市民の手で記録していくものです。これから市民のみなさまから記録者を募っていくとともに、その情報交換・活動の場を公開サロンとして定 期的に行っていきます。これらの定点観測写真は、NPO法人20世紀アーカイブ仙台とせんだいメディアテーク「3がつ11にちをわすれないためにセンター」で記録・公開し、市民参加で震災を語り継ぐ記録としていきます。
【考えるテーブルとは】
人が集い語り合いながら震災復興や地域社会、表現活動について考えていく場を「考えるテーブル」と題して、せんだいメディアテーク、7階スタジオに開きます。トークイベントや公開会議、市民団体の活動報告会など多様な催しを行っていきます。