記録者:嶺岸美和
2011年3月11日当時は宮城学院高等学校の1年生。
地震の時は宮城県仙台市青葉区桜ヶ丘にある同校の校舎内にいた。
その後、祖父母宅で避難生活を送る。
■3月11日:学院内での一夜
2011年3月11日、地震が発生した当時、私は授業がおわり放課後に部活をしているところだった。
すぐに親と連絡をとるように先生がたに言われたが、なかなか携帯がつながらず、そのまま夜になった。
私は学校に友達と一泊することになり、学院内にある、普段、会議を行ったりするランディス館に寝泊まりすることになった。そこでは中学生と高校生の、家に帰ることが困難であった生徒達が会議室やホールで雑魚寝するような形になった。
宮城県仙台市青葉区桜ヶ丘9丁目1-1 宮城学院中学校・高等学校
2011年3月11日の夜、私たち高校生が寝泊まりしたランディス館の第三会議室
宮城県仙台市青葉区桜ヶ丘9丁目1-1 宮城学院中学校・高等学校
同じ学院の中学生たちには第三会議室隣にあるランディスホールが割り当てられた
宮城県仙台市青葉区桜ヶ丘9丁目1-1 宮城学院中学校・高等学校
学院の教職員の方々は、部屋ではない、こうした廊下などのスペースで一夜を過ごした
■3月12日:祖父母宅での避難生活開始
次の日の朝、私は徒歩で帰ろうか迷っていたところだったが、ちょうどよく私の母と妹、祖父、祖母、叔父のお嫁さんが迎えに来てくれた。
私の家はオール電化であるため、暖房の設備がエアコンと蓄熱式電気暖房機しかなかったために暖をとるのが困難だったことと、ガスがないために食事をとることが困難だったので、祖父と祖母の自宅に1週間ほど住んだ。
そこでは、私の祖父、祖母、母、妹、叔父、叔父の嫁、叔父の息子、犬2匹、そして私と10人が住んでいた。祖父の家もとても広いというわけではないので、さすがに10人はせまく感じた。
電気が通ってからは、少し祖父の家よりは広い、我が家で生活を共にした。
祖父の家にいたときには周りにひとが常にいてその距離もなかなか近かったために、何か心が休まらずリラックスできなかった。
避難所でもそうだと思うが、私のような生活でもプライバシーは、ほぼないように感じた。どこにいるにしても人がいるために、どこか心が落ち着かなかった。
※本記事の写真はすべて、2014年11月13日に記録者自身により撮影されたものです。