名取市閖上の日和山から見える8方向の景色を、2011年5月から毎月撮影し続けてきた佐藤泰美さん。2021年6月までの10年間で121回通い、記録を重ねてきました。
この記事では、なぜ定点観測写真の撮影をはじめたのか、そのきっかけや続ける動機などを佐藤さんが綴った文章を紹介します。(以下、記録・文:佐藤泰美)
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きっかけとはじまり
東日本大震災当時、私はせんだいメディアテークの副館長を務めていました。10周年を迎えたメディアテークの次の10年について考える日々でしたが、あの瞬間から、それまでとはまったく違う時間が流れ始めました。とりあえず利用者と職員の安全を確保することを皮切りに、施設の被害状況ととりわけ危険個所の確認、続いて復旧にむけた手順、方法、さらに事業の継続と再開の検討など、とにかく目の前に次々と現れる課題に、周りのスタッフとともに必死に向き合うだけで精一杯、メディアテークをどうするかということと、あえて言えば自分が倒れないことだけしか考えられない毎日でした。そんな日々が1カ月続いたあと、安全確保のための緊急工事や部分的な施設再開のめどがようやく見えてきた4月中旬、メディアテークの2階でぼんやりと外を眺めていた私は、外のケヤキの木が芽吹き始めたことに気づきました。
その数日後、私はメディアテークを休んで石巻に足を延ばしました。震災後、自宅とメディアテークの往復以外に移動したのは初めてのことだったこともあり、行くだけでもかなり勇気がいりました。当時乗っていたのが遊び車っぽいオープンカーだったことが、被災地に向かうことをためらわせた面もあるのですが、そもそも、なにかできるわけでもないのに、ただ行くだけということに気が引けてもいたと思います。結局、日和山に上って見渡す限りの被災状況を目にした後、逃げるようにして帰ってきた記憶があります。日和山の桜はまだ3分咲きだったでしょうか。
日和山に立ち、眼下にひろがる石巻の変わり果てた姿に向けて、どこか盗むような気持ちで桜越しのシャッターを切ったのが、震災以降、メディアテークの外で撮った最初の写真になりました。メディアテークの中では、毎日山のように記録写真を撮っていたのですが、一歩外に出ると、部外者である自分が、自分にはどうすることもできない他者の被害のようすを、勝手に撮影することに強い罪悪感を感じ、カメラを向けることができずにいたのです。いったんカメラを向けてしまえば、たとえそれが目を覆いたくなる惨状であっても、つい画面の中でおさまりの良いアングルを探してしまう自分にも、どこか許しがたい違和感がありました。
その後、5月はじめのメディアテークの部分再開を経て、すこしばかり気持ちに落ち着きを取り戻した5月17日、そんな罪悪感を抱えたままではあったものの、カメラを携えて気仙沼に足をのばし、その翌週の5月22日には、こんどはむかしよく釣りにいったことのある亘理の鳥の海経由で、閖上に向かいました。友人から閖上の知り合いの家のようすを見てきてほしいと頼まれたからでもあったのですが、それよりもこのころは、地形も町並みもすっかり変わってしまった今こそ、被災地のありのままの風景を、正確な場所と日時と一緒に記録することの重要性を感じ始めていたように思います。以前から私は、写真に撮影日時と場所をそのまま記録することの可能性に関心をもっていたことによるかもしれません。表現として被災地の様子を撮影するのではなく、あくまで記録として撮る。もしくは現地に行けない誰かの目の代わりとなって撮る。友人の知り合いの家のあたりは、あとかたもなく流されていましたが、その時私は躊躇なくそこにカメラを向けシャッターを切っていました。
定点写真とのであい
メディアを扱う新しい公共施設としてのメディアテークにとって、地域の映像(※写真を含む)アーカイブをいかにして作っていくかという課題は、開館前の事業構想段階から検討が続けられてきた主要なテーマのひとつでした。ミュージアム的に考えれば、地域映像の調査研究に始まり、収集保存作業を経て、広く公開するという流れになりますが、残念ながらメディアテークにはそれを自ら行えるだけの十分な人的資源も予算も想定されていません。そもそもアーカイブ、すなわち情報の蓄積を、特定の専門分野内のことではなく、あくまで公的な社会資源ととらえる見方は、仙台はもとより日本全体にまだまだ浸透していない状態です。そんな中では、まずは地域の公的アーカイブの意義を広め、ともに取り組み、支える人々を募るところから始めなければなりません。メディアテークの7階にあるスタジオと呼ばれる空間は、そのような人々が集い、ともに活動し、さまざまな視点から地域のアーカイブを育てていける拠点ともなるよう計画されたのです。
拠点となるためには、そこで人々が集める情報や映像が、目に見える形でそこに蓄積され共有される、共同の受け皿が必要です。すなわちアーカイブです。それを最小の負担でどのように立ち上げていくかを考えるなかでに思い立ったのが、一般人から専門家まで無数の人々が残す映像を、それぞれの撮影内容やテーマではなく、撮影された日時と位置によって機械的にアーカイブするという方法です。それによって撮影場所、すなわち地域ごとかつ時間軸ごとに紐づけられた膨大な映像インデックスができ、人々はそれを頼りにさまざまな土地や時代の記録にアクセスできるようになるはずです。位置と時間という枠組みは特定の地域や時代に閉じられない開かれた枠組みでもあるので、ローカルなアーカイブづくりがそのまま普遍的な世界共通のアーカイブづくりにもなります。それが仮にこの先50年、100年、200年と蓄積されたら、未来の人々は、自らが生きている場所ごとに、過去にさかのぼってその移り変わりを感じることができるようになるのではないでしょうか。身の周りの日常の風景が、仮にそれがニューヨークだろうが秋保の山の中だろうが、それぞれがそれぞれに、さまざまな物語をもった奥行きの深いものに感じられるようになるとしたら、「中央と地方」という概念はもはや意味を失い、それぞれの地域、エリアの見え方、とらえ方も変わるのではないかとすら私には思えました。人類がコンピュータによる情報処理や映像の技術を手にしてからの歴史はまだほんの少ししかありません。まだ誰も経験したことのない未来の地域情報+映像アーカイブへの挑戦を、仙台の小さなとりくみからはじめてみる価値はある。とりわけ、メディアテークを担当する前に仙台市博物館で数少ない歴史資料と格闘しながら研究する先輩たちを見てきた私にとっては、急速な情報技術によって爆発的に増える記録をいかにして未来に届けるかはとても重要な文化的課題に思えました。
とりあえず地元の協力者の力を借りながら古い写真や映像を可能な範囲でデジタル化し、撮影場所と時期の情報とともに、試作したマップシステム上に登録する実験を始めました。2002年から「せんだい時遊マップ」としてメディアテークのサイトで公開して以降、「街のアルバム製作委員会」や「まちかどタイムトラベル」などの関連事業を展開しながら、10年以上にわたって試行錯誤を繰り返してきましたが、個々のデータの権利処理やマップ上に増え続ける映像の見せ方の難しさ、さらには震災後たちあげた3がつ11にちをわすれないためにセンター等への業務集中の必要などもあって、いったん休止状態になり現在に至っています。マップシステムじたいは今、Googleやappleが一般にサービスを提供できるようになってきましたが、問題はむしろ、個人情報や権利関係、見る人の目的にそった見せ方の工夫や悪用・乱用を防ぐための配慮、何をどれだけ登録し、どの範囲で共有するかなど、個々の情報の扱い方や運用方法が課題になっているように思います。
(次ページへ続く)