この記事は、震災当時まで宮城県亘理郡の山元町で暮らしていた佐藤修一さんが、ご自身のふるさとについて執筆したものです。
(以下、文:佐藤修一)
東北の湘南と言われた山元町。仙台市から南に35kmの地点に位置し、東は砂浜海岸となって太平洋、西は標高約300mの阿武隈山地を境に角田市、丸森町、南は福島県新地町、北は亘理町に接している。面積64.48㎢(東西約6.5km南北約11.9km)、平均気温12.2度、人口16,695人(2011年2月末時点)、行政区22区(うち海岸部6区)、特産品は米、いちご、りんご、ホッキ貝の純農村の町*。
海岸は仙台湾南部で、防潮堤と防潮林に守られていた。白砂青松の地で、別荘地なども300戸程あった。
東日本大震災では、沿岸部の行政区は北から牛橋、花釜、笠野、新浜、中浜、磯の6つの集落で甚大な死者を出した。沿岸部ではないが、2級河川の坂元川に沿っていた町区でも多くの死者があった。
防潮林は、植木、排水溝の手入れ、落ち葉拾い(集落では「ゴンノサライ」と言う)、葦刈りなど生活に密着していたが、津波により行政区全体が壊滅してしまったり、残ったとしても元の戸数の9割が流されてしまった。
当時小学5年だった岩見夏希さんは、この情景を見て「ない」との詩を作って発表した*。
見わたせば なんにもない そこにあるはずの風景 思い ぜんぶない
でもそこにあったものをとりもどすために がんばっている ぼくたちには
まえとちがうが 必ずいいものが 帰ってくるだろう
この詩はFMりんごラジオで紹介されたことをきっかけに、「りんごかわいや音楽会」で希望の詩(うた)として発表された。
その後、海岸防潮堤ができ、防風林も完成したが、海岸沿いの6集落は平らな土地がほとんどで、人が住めない津波防災区域第1種に指定されたことにより、現在は緑一色の農地として利用されている。
常磐線は浜吉田駅、山下駅、坂元駅の2区間が直線であることで有名であったが、震災で流失したことから、内陸部に移設し高架橋とした。跡地は高盛土にして県道として利用している。
震災前の集落は跡形も無くなり、記憶のふる里になってしまった。
(記憶の集落の記録の一部は、震災遺構中浜小学校でビデオ放映されております。)
佐藤修一
*参考文献:『山元町東日本大震災記録誌』(2013年)、「広報やまもと」2012年3月号
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2回のチリ地震経験がもたらしたもの(仙台湾南部)