語り手:柳谷理紗/進行・聞き手:佐藤正実さん(NPO法人20世紀アーカイブ仙台)
■22時頃配っていた地震を伝える河北新報号外
[柳谷さん(以下、柳)]私は陸前原ノ町駅の近くで働いていて、西公園の南側にある花壇という町に住んでいます。いつも自転車で通っているんですけども、震災当日は家に自転車を置いてきていました。カメラとか自転車とか、これから必要なものを家に取りに行こうと思って、徒歩で帰っていた時、すごく街の中が暗くて信号も何も点いていないような状態で、とても静かでした。22時頃、トラストタワーに近づいたときに一階が明るかったんですね。ここは非常用電源とかを持っていて受け入れてくれているということに驚いて、中に入って行きました。一階にブルーシートを敷いて、帰宅困難者を受け入れていたんです。そうしたら、河北新報社の本社が丁度、トラストタワーの向かいにあるので、記者の方が号外を必死に配っていたんですね。自分もまだそんなに情報を手に入れられてなかったし、次の日、職場に持っていこうと思って受け取りました。そこで初めて津波のことを知りました。私は普段ツイッターなどのSNSを使っていて、仙台在住の人との繋がりも多かったんです。この時、仙台在住の人に向けた情報を発信しようと、意識して写真を撮りました。それにしても、このような状況で号外を出せるということにすごく驚きました。
■22時頃一番町マルシェのテント内で暖を取る。アーケード内に地震を伝えるラジオ放送が響く
[柳]その後、再び歩いて家まで戻っている途中で、普段マルシェをやっている一番町のアーケードを通りかかったら、ラジオの音が響いていたんですね。なんだろうと思って寄ってみたら、テントの中に暖房のブースを作ってラジオを流してくれていたんです。そこに外国人の方や日本人の方も集まっていました。やっぱりみんなどうしていいか分からないし、情報も手に入れられなかったので、すごくありがたいなと思って写真を撮りました。
[佐藤さん(以下、佐)]ここは電気が点いていたんですか?
[柳]たぶん、普段ここで市をやっていたことで、テントや発電機など持っていたんだと思います。通常屋外で市を開催してるということが、このような事態に役に立つのだと感じました。
■避難所となった榴ヶ岡小学校に書かれたメッセージ
[柳]3月16日に榴ヶ岡小学校の避難所に行ったときに、関西の方からの応援メッセージが入口のところの柱に張り付けてありました。ダンボールで支援物資を送るときに一緒に応援メッセージも書いてくれたのだと思います。これを見て、こんなに多くの人に応援していただいてありがたいなと思いました。知り合いがこの避難所にいると言っていたので、なるべく現場を見たいと思い、仕事帰りに避難所に寄ったときに撮った写真です。
■高砂市民センターに張り出された、高砂中学校からのお知らせ
[柳]4月12日に、みんなが震災直後に避難した一次避難所から、長期化するということで、二次避難所を設置することになり、宮城野区は5か所に集約することになったんですね。私は仕事の関係で、設置してから二日目の4月13日に高砂市民センターに行きました。もともとここは、震災直後から指定避難所ではなかったけれども、津波で被災した方が避難していた場所でした。この頃、そろそろ学校の現状や再開予定を、避難所にいる児童や親御さんが知りたい時期だったんです。そういう情報はなかなかメディアでは知ることができませんでした。避難者のみなさんが必要としている情報や、環境改善の課題などを自分の職場の仲間にも共有しなければいけないと思って写真を撮りました。
[佐]職場の人たちと情報を共有するために撮っていたんですか?
[柳]そうですね。これから職場の仲間で順番に避難所にサポートに行こうという状態だったのですけれども、現場の情報が不足していたんです。トイレの状態とか、どういう風に居住空間を作っているか、情報の掲示の仕方など、現状を仲間に知らせるために撮る意味がありました。
■ガス開栓の喜びが伝わるお店
2011年4月16日 宮城県仙台市青葉区大手町
|展示「3月12日はじまりのごはん」で利用しました|
[柳]この写真は4月16日に撮影しました。私が住んでいる地域は都市ガスが復旧するのがすごく遅かったんですね。この時は再開した少し後なんですけども、このかつ丼屋さんはイラストでメニューを書いてくれたりと、平時から楽しい感じなんですが、すごく嬉しさが溢れているなと思って撮りました。
■倒壊した堤町の登り窯のレンガを、市民がきれいに作業中
[柳]奥州街道沿いの堤町という町では、江戸時代から堤人形や堤焼きが作られていました。そこに、唯一、現在も残っている6連の登り窯がありまして、今回の震災で6房あるうちの3房が崩れてしまいました。私は学生のころから、この堤町や堤焼きのことを伝える「堤町まちかど博物館」の整備や子どもたちの教育に活かすことを行っている市民活動団体に関わってきました。窯が崩れてしまったと聞いて、やっぱりどうにか復活したいと思いました。所有者の方も応援する声に励まされ、2011年の7月26日と30日に、まず煉瓦を運びだし再利用可能なレンガを分別して、こびりついた土を削り綺麗にしようということから始めました。そのときの写真です。それからも数回に分けて綺麗にして、今年(2012年)になって煉瓦を積んだり土を塗ったりしています。丁度10月に復活祭をします。崩れた3房全てが元に戻ったので、気になる方はいらしてください。
[佐]いろいろな市民の方が参加されたんですか?
[柳]はい。近くに住んでいる方や、これまで総合学習のなかで窯に訪れたことのある台原小学校の子どもたちのほか、吉成小学校の子どもたち、大学生、建築関係の方などたくさんの方が修復作業に参加しました。
■松島マラソン大会開催
[柳]10月9日に松島マラソンが開催された時に、知り合いが出場するということで、応援に行きました。この時にはほとんど被害の痕は残っていない状態で、ようやく開催できるということで、喜びが溢れているような大会でした。先ほど梨本さんが松島で撮影された写真の中心に写っていたお店に行ったのを思い出しました。この時には、もう再開されていて、当時の写真を店内のいろいろなところに飾ってありました。お店には一階の半分より上くらいまでは波が来てしまったらしいんです。波がここまで来たという印をつけていたり、泥だしがすごく大変だったというようなエピソードも書かれていました。この時にはもう観光は復活しているような状態でした。
*この記事は、2012年9月22日にせんだいメディアテークの考えるテーブルで行われた『3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクト公開サロン「みつづける、あの日からの風景」』で、柳谷理紗さんがお話された内容を元に作成しています。
当日の様子はこちらからご覧いただけます。
《考えるテーブル レポート》→http://table.smt.jp/?p=1278
【3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクトとは】
このアーカイブ・プロジェクトは、東日本大震災で被災した宮城県内各市町の震災直後の様子、および震災から定期的に定点観測し復旧・復興の様子を後世に残し伝えるために、市民の手で記録していくものです。これから市民のみなさまから記録者を募っていくとともに、その情報交換・活動の場を公開サロンとして定期的に行っていきます。これらの定点観測写真は、NPO法人20世紀アーカイブ仙台とせんだいメディアテーク「3がつ11にちをわすれないためにセンター」で記録・公開し、市民参加で震災を語り継ぐ記録としていきます。
NPO法人20世紀アーカイブ仙台
公式Web:http://www.20thcas.or.jp/
【考えるテーブルとは】
人が集い語り合いながら震災復興や地域社会、表現活動について考えていく場を「考えるテーブル」と題して、せんだいメディアテーク、7階スタジオに開きます。トークイベントや公開会議、市民団体の活動報告会など多様な催しを行っていきます。
|記録の利用事例|
5枚目の写真は、展示「3月12日はじまりのごはん」で利用しました。
来場者がこの写真を会場で見て、想起したエピソードを下記のリンクからお読みいただけます。
57「ガスはね 来たんじゃなくて日本全国のガス会社の作業員の方がつないでくれたんだと実感した」