語り手:笹崎久美子さん/進行・聞き手:佐藤正実さん(NPO法人20世紀アーカイブ仙台)
■震災直後、冷蔵庫の扉が開いたままの台所
[笹崎さん(以下、笹)]この写真はうちの台所です。私は写真を撮るのが結構好きなのと、ツイッターをやっていましたので、何かあればアップしてみんなに見てもらいたいという気持ちが常にあるわけです。ということで、まず真っ先に台所の写真を撮りました。あとは息子たちが自宅にいなかったので、帰ってきた時にこんな風になったんだよ、というように見せてあげたいという気持ちもありました。今見るとあれだけの地震にしては被害が少ないように見えますが、多分手をつけていない状態です。だけど、落ちているものと落ちていないものがあるってちょっと不思議だなって思うんですよね。
[佐藤さん(以下、佐)]冷蔵庫も開きっぱなしですね。
[笹]そうです。なんにも手をつけてないんですけど、水道の向こうとかちゃんとしていますしね。どうしたものかなと思うんですけどね。
■お茶の間で散乱した物を拾い上げる
[笹]この写真もまだ片付ける前のうちの茶の間です。テレビも何も映ってませんし。私はフリーランスで自宅で仕事をしているのですが、丁度この日はお休みだったんですね。外に出る用事が何もなくて母と2人で自宅にいました。いっぱいいっぱい物が落ちてきている様子を撮りたいと思って写真を撮りました。うちは電気の復旧が他よりちょっと遅くて、5日目に電気が繋がったのですが、電話やインターネットなどの発信できるような回線が復旧したのは5日目くらいだったんですね。5、6日大したことないではないかって今だと思えるのですが、この時はすごく長く感じたのを覚えています。
[佐]先が見えませんものね。
[笹]見えなかったです。もうすっかり携帯も電池がなくなった状態で、普段の連絡が何も出来ないので、撮った写真を誰かに見せることはできなかったんですが、こんな状態だったということを記録しておきたいと思い撮っておきました。写真に写っているのはうちの母です。
■震災直後、全ての物が落下した脱衣所
[笹]これはうちの脱衣所です。台所や茶の間よりも脱衣所は物が全部落ちていて、一番ひどかったので撮影しました。どちらかというと、ツイッターなどに載せるためではなく、家族の記録のように考えて撮った1枚です。
[佐]東京に妹さんが住んでいらっしゃって。すごく驚いたと伺っていましたが。
[笹]はい。もう電気が止まってテレビも見れない状態ですよね。ラジオはあったのですが、聞いただけではちょっと状況のイメージができませんでした。例えば、どこかで津波が起こって何百人の遺体があるとか、そのような情報は淡々とした言葉として入ってきたのですが、ピンとこなかったんです。
幸い私のうちでは古いアナログタイプの電話を災害用に残していました。光電話は災害時には電源が切れてしまうので使えないということを、たまたま分かっていて、アナログ電話は残しておこうかなと思っていたんです。アナログ電話の回線は電力も供給してくれるので、暫くの間は使うことができます。そんな時に、妹から普通に電話がかかってきまして、「もしもし」って能天気に出たら、「なにやってるの、お姉さん!」と急に怒られまして意味が分かりませんでした。「何やってるのってどういうことよ」と聞き返すと、「今、閖上が大変なことになってるのよ!」と言われました。閖上は、私の自宅がある地区から、二つ隣の地区なんですね。「津波と言われてもここは遠いよ」というようなことをぐずぐず言ったら、「もう逃げてすぐ逃げて!」と言われましたが、全然緊張感ないんです。地震が起こった後も、近所の奥さんと道路で立ち話をして、大変だったわね、宮城県沖みたいに3、4日電気通らないわよね、というような感じで、ものすごく近所中のんびりしていたんですよね。だから、閖上まで津波が来てるといっても、うちはまだ離れていると思って、逃げる気もなく普通に自宅におりました。ただ次第に気になりまして、ネットは繋がらなかったのですが、モバイルの小さなパソコンを開いて見て、もうびっくりしましたね。ひえぇ、世の中こんなことが起こってるんだと初めて思いました。また妹から電話がきて怒られまして、「逃げて、逃げて!」と言われるのですが、東京でテレビを見ていた妹は、地元出身なので地理を分かっていて、上空から波が来ているのを見て、絶対だめだと思っていたようなんですよね。そんな時に電話をしたら能天気に「はーい」と出たので、頭にきたみたいです。
[佐]地元で被災している方がリアルタイムにテレビの映像を見ることは、ほとんどできなかった訳ですが、全国の方が見ていて、そこに自分の親族や友人がいるとなれば気が動転してしまいますね。
[笹]絶叫してしまいますよね。震災の最中にいる人ほど、何の情報も分からないんだということを痛感しました。都会や別な地域にいて何も影響を受けていない人は、生中継で波の様子を見ることができるのに、実際にそこにいる私たちは何が起こっているのか最も分からないということを痛感しました。
[佐]このように、自分は被災地にいたけれど親戚や家族が東京にいて、電話をかけてくれたという経験をされた方はいらっしゃいますか?
[観客]私のうちも、アナログの黒電話ですので、今のお話が本当に良く分かります。
■停電のためろうそくで過ごす
2011年3月12日 宮城県仙台市太白区 自宅
|展示「3月12日はじまりのごはん」で利用しました|
[笹]この写真は翌日の3月12日の食事の風景です。電気は来ていませんでしたが、プロパンガスだったので、ガスを使うことができ、料理する材料もたくさんありました。というのも、見たとおり母がおりますので、だいたいおばあちゃんがいるうちって冷蔵庫にいっぱい食べ物が入っているんですよ。誰にあげるのかわからないままの漬物なんかも入っているので、普段はその事で私とケンカしたりしている訳ですが、この時は素晴らしく役に立ちました。冷凍庫に、秋田で獲れたばかりのタコや北海道の海産物とかが入っていて、おかげで我が家は震災の間はかなり豪華な食事をしていました。そして冷蔵庫に冷凍品が入っているとすぐに悪くならないで、そこそこクールに保てるんですよ。毎日煮炊きすることができたので、仙台市内では比較的良い生活が送れた方だと思います。ただ、煮炊きができても、電気が復旧するのは遅かったので、日が沈まないうちの5時くらいに早めに調理を終えてしまわなければいけませんでした。夜になると母が用意した蝋燭を立てて、闇の中でご飯を食べました。アルミホイルをくしゃっとして空き瓶に立てておくと蝋燭立て代わりになるんです。
■インスタントラーメンをつくる母
[笹]この写真は当日の夜だと思います。母がインスタントラーメンを作り始めた様子です。「ガスもちょっと開けてみないとどうなっているか分からないから危険だし、今日はもう緊急時だからご飯なんか食べなくたっていい」と私が話したところ、母は「そんなことはない。こんな時は腹を一杯にしないと元気が出ないんだ」と言って行動し始めました。災害時というのは、普段と違うことが起こって、人間、良くも悪くもハイテンションになるということを感じました。私が「やめといたらいいのに」と言っても、母は「私つくる」と言って果敢にインスタントラーメンを作り始めていました。それを、後ろから黙ってカシャっと撮った1枚です。
[佐]まだ余震が本当に多くて恐怖が続いている中だったと思います。ただ、ふっと我に返った時に、お腹空いてたよなという気持ちを思い出して、腹が減っては戦はできぬ、とインスタントラーメンを作っているお母さんの姿、すごく雰囲気が伝わりますね。
*この記事は、2012年10月27日にせんだいメディアテークの考えるテーブルで行われた『3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクト公開サロン「みつづける、あの日からの風景」』で、笹崎久美子さんがお話された内容を元に作成しています。
当日の様子はこちらからご覧いただけます。
《考えるテーブル レポート》→http://table.smt.jp/?p=1470
【3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクトとは】
このアーカイブ・プロジェクトは、東日本大震災で被災した宮城県内各市町の震災直後の様子、および震災から定期的に定点観測し復旧・復興の様子を後世に残し伝えるために、市民の手で記録していくものです。これから市民のみなさまから記録者を募っていくとともに、その情報交換・活動の場を公開サロンとして定期的に行っていきます。これらの定点観測写真は、NPO法人20世紀アーカイブ仙台とせんだいメディアテーク「3がつ11にちをわすれないためにセンター」で記録・公開し、市民参加で震災を語り継ぐ記録としていきます。
NPO法人20世紀アーカイブ仙台
公式Web:http://www.20thcas.or.jp/
【考えるテーブルとは】
人が集い語り合いながら震災復興や地域社会、表現活動について考えていく場を「考えるテーブル」と題して、せんだいメディアテーク、7階スタジオに開きます。トークイベントや公開会議、市民団体の活動報告会など多様な催しを行っていきます。
|記録の利用事例|
4枚目の写真は、展示「3月12日はじまりのごはん」で利用しました。
来場者がこの写真を会場で見て、想起したエピソードを下記のリンクからお読みいただけます。
39「俺の部屋だけ、何日過っても電気が付かない。考えてみたら未払いで止められていたのだ。涙が出た。」