ごうけいほうもんしゃすう

子どもにこの記憶を伝えないといけないんじゃないかって感覚がありました

3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクト 公開サロン @考えるテーブル 2013年10月5日

語り手:三浦隆一さん/進行・聞き手:佐藤正実さん(NPO法人20世紀アーカイブ仙台)

■必要なものはたいてい売り切れていた

[三浦さん(以下、三)]仙台市在住の三浦と申します、よろしくお願いします。私は、震災の時は、「たいはっくる(太白区にある複合施設)」の中の図書館におりまして、ちょうど転職のための資格試験の勉強中でした。両側の書棚から地震の揺れとともにどさどさ落ちてくる本を見ながら、どこにいたら一番安全なんだろうと、みんな動揺して呆然となっていました。物凄く太い柱があって、柱が天井に埋め込まれている所に、多少の間隔があるんですけど、柱が揺れるせいで間隔がなくなって、ゴンゴン天井に当たっている状況を見た時に、これはただ事じゃないな、と思ったのが震災直後の感想です。その時に、母親は大丈夫なのかと思いました。すぐ帰ろうと思って、揺れている中ふらふらしながら外に出ようとしたら、係員の人に「今外に出るとガラスが落ちてきて、ガラスに当たってしまうと大変なことになるから、揺れが収まるまでは建物を出ないでください」と言われて、そうかと。そういう冷静なところも考えられなくなっていたなと、ふと我に返って、「ありがとうございます」と言って、建物の中にいました。揺れが収まってから外に出ると、実際垣根のところにガラスの破片が突き刺さって落ちていて。上層の方では窓ガラスが割れていて、いやこれはもう大変なことだなと。真っ先に自転車で家に帰ったんです。この時、MP3プレーヤーで音楽を聞いてたんですけど、FMラジオを聞けるものだったので即座にラジオに切り替えて、それから1週間ぐらいはひたすら「Date FM(仙台の民間FMラジオ局)」から情報収集し続けたという状況です。

[佐藤さん(以下、佐)]家はどちらなんですか?

[三]南仙台が最寄り駅で、閖上の方から川をさかのぼって8キロメートルぐらいのところです。家に帰って弟に「無事だ」と、「家もある」と電話をしたら、弟が名取の津波の映像を見ながら、「兄貴、来るとは思わないけど、川沿いだし、川さかのぼって津波来るかもしれないから、逃げたほうがいいんじゃないか」という話をしました。私は「馬鹿言ってんじゃねえよ」って言ったんですけど、後々その映像を見たらですね、逃げてても大げさじゃなかったなという感覚は持ったんです。そういう所に家がありました。家の中は、酒瓶なんかが軒並み割れて家中が酒臭くなっていました。母親は偶然外出していて、親戚と帰ってくるとメールがありましたので、避難所に行かなくてもいいだろうと思い、割れた破片は明るいうちに掃除しておかないと家に入れないよなと思って、慌てて片付けて。その後は、次は飯だと。「今のうちに何か飯」、といっても無いしなと。近所のセブンイレブン(コンビニエンスストア)が震災直後、非常電源でレジも動いていたんですよね。すごく災害時のことを考えているなと思いました。震災直後数時間はセブンイレブンのレジが正常に動いていて、水なんかはもう買いに行ったら全部売り切れてたんですけれども、ブロックアイス(氷)とか、あとはレトルトの鮭とかを売ってて、これでも買っていこうと、買える物を買っておきました。「セブンイレブン本当にお世話になりました」って感じだったのですが。

ダイシン幸町店(必要なものは大抵売り切れていた)

2011年3月12日 仙台市宮城野区大梶7-5 ダイシン幸町店

次の日ですね、当時はまだ携帯電話のバッテリーもありましたし、固定回線の電話ではつながる所もあったので、親戚やお年寄りだけで住んでいる世帯とかの知り合いが多かったので、そういう世帯に、大丈夫か大丈夫かって見に行きました。この写真は、一番心配な親戚の家の帰り道に撮ったものです。安養寺に住んでいる親戚は、水が完全に止まっている、トイレを流す水もないという話だったので、ペットボトルに4リットルくらい水を入れて、とりあえず自転車で様子を見に行きました。その帰りに、何か買えるものないだろうかと、色んなホームセンターですとかコンビニに寄ろうとしたんですけれども、男性店員が持っている告知の段ボールに書かれている通りですね、必要そうなものはたいてい売り切れていて、どうにも手に入らない。3時間待っても何も手に入らないっていう状況で、ここもそうかと。電池ですとか、水、カセットボンベ、ホッカイロ(使い捨てカイロ)、懐中電灯やラジオなんかも軒並み売り切れていて、それでも人がどんどんどんどん並んでいるという状況で、店員さんが慌てて、「並んでも(商品は)ないですよ」っていうのをあのような手作りの看板で皆さんにお知らせしてたという状況ですね。「以下の商品はありません」っていう風に書いてて、並べてるじゃないですか。これ見たときに、あぁ、これはあった方が良い物なんだよなって逆に思いました。これが(店頭から)なくなってるんだから、これがあると緊急時には役に立つ一覧なんだなって思いましたね。水や電池やホッカイロ、ラジオ、ろうそく、ストーブ。すごく役に立ったものばっかり。やっぱり、必要に迫られてみんな買うんだから、必要なんだよね。買うのに数時間並んで、買う必要があったというとこですね。

■久しぶりの新聞で被害の状況を初めて見る

河北仙販上杉店(久しぶりの新聞で被害の現状を初めて見る)1

2011年3月12日 仙台市青葉区上杉3丁目9-32 河北仙販上杉支店

[三]私、もともと自衛隊に勤めておりまして、非常事態でサバイバルモードが発動するんです。携帯電話でテレビ(ワンセグ)を見ようとしている家族がいたら、「いや、見るな」と。「緊急時に連絡取れなくなったら終わりだから、無駄なバッテリー使うな」って言って、電気温存してたんです。私のMP3プレイヤーのラジオがスピーカーではなかったので、私がラジオを聞きながら「こういう状況だよ」っていうのを口頭で伝えるというような生活をしてたんです。新聞も当然届かなくて、津波がすごかったという話は聞いてたんですけど、12日に河北新報の前通ったら、号外でこのような形で出ていて。

[佐]これ河北新報?

[三]販売所ですね。花京院の勝山館(結婚式場)の斜め向かいくらいの販売所なんですけど、こんな形で貼り出されていて、この名取の写真を見たときには本当に衝撃で。これ、何で写真撮ったかというと、家族に見せてあげないといけないと思ったんですよ。「名取がこんな状況だぞ」と見せてあげないといけないと思って。人がすごく多かったんですけれども、写真撮って。いよいよ非常事態だなっていうのが自覚されつつあったときです。印象的でしたね。

[佐]三浦さんもそうなんですが、今日見て頂いているのは、本当に生活が分かる写真ということで、なぜこれを撮ったのかを、ご本人から聞かなきゃ分からないのももちろんあるんですが、なんとなく撮った理由が分かるというか、そういう写真が今日見て頂いているのには多いなと思うんです。この翌日、新聞が来たこと、配達されたことっていうのは、新聞を作っている、印刷している所もあるし、配達してくれている人もいるっていうので、すごく安心した覚えが私はあるんですよね。こういう風に、みんなの前に届けれられて。ただ、紙面の衝撃は大きかったけども。動いているというのがすごく安心したような覚えはありましたね。これを家族にお見せして、どうだったですか?

[三]親戚は津波の被害が確認できるところではなかったので、仙台にいながらなんですが、結構原発の方が心配で、例えば80キロ圏内では避難しろという、アメリカ、米軍の情報があった中、うちはちょうど100キロぐらいなんですよ。そうすると、80キロと100キロって、どんな差があるんだろうとか、もし爆発して避難圏が広がった時にどう逃げるんだろうかっていうような話を、仙台にいながらなんですけども、震災直後1週間くらいは本当に心配で、家族としてもみんなでどこに逃げるみたいな話をしていたんです。津波の被害っていうところでは、あまり当事者性はなかったかもしれないです。

■飲食店の炊き出し

NHK仙台支局付近(飲食店の炊き出し)

2011年3月12日 仙台市青葉区本町3丁目5 NHK仙台放送局付近

[三]こちらも、親戚の家から自宅まで帰る途中なんですけど。なにしろ電気が落ちているので、飲食店の冷蔵庫が軒並み食べ物を腐らせるだけだということで、飲食店関係の方たちが路上に出て、炊き出しして食べ物を売っていたんですよね。こんな形でいろんな人が食べに来ている。震災直後ならではの写真かなと思います。私自身は買わなかったんですけど、かなりお得な価格で、おいしそうな肉なんかも全部、冷蔵庫の中を空にしようというところで、焼いて出してましたね。

[佐]肉屋さんかなにかですかね。

[三]飲食店関係だったと思うんですけど、そこまで詳しく覚えてないです。

[佐]これは販売をしていたんですね。これバーベキュー焼いてるようなやつだもんね。

[三]そうですね。炭があればこそだと思うんですけど、こんな形で至る所にありました。

[佐]三浦さんは、こういったものをちょくちょく、時系列を追って撮っているみたいですけど、間を開けずに。

[三]何しろ仕事してなかったというのもあるんですけど、親戚の家を回り歩く中で、震災の報道では散々、津波の被害がすごいという話はあるんですけれども、この次の写真にも出てきますが、日常が完全に奪われているなという感覚はすごく持っていて。外に向けて発信するというよりも、子どももいない、独身なんですが、子どもにこの記憶を伝えないといけないんじゃないか、っていう感覚がすごくありまして。

[佐]この時点で?

[三]そうですね。こういう写真を撮りながらなんですけども。

[佐]早いですね。

[三]実際、デジカメで写真を撮っているんですが、デジカメのバッテリーを気にしつつ、どういう所を絞って撮っていったら、残りの単3の電池がなくなるまでに写真撮れるだろうっていうことを気にしながら、象徴的なところをぽこぽこ撮っていったという。後ほど、電気が来るようになって、充電できるようになってからは、もうパシャパシャいろんな所を撮るようにはなったんですが、このタイミングではそうでした。「こういう日常だったんだよ」って。例えば、「震災直後に本当に電気が来なくて、食べ物もなくなって、路上でこういう風に売ってたんだよ」って言葉で伝えても、多分伝わらないんじゃないかなと思って。写真一枚、具体的なものを見せながら説明する必要性っていうのは何となく感じていて。説明する対象者まではまだなかったんですけど、伝えなきゃいけない、というのは何となく思っていたところです。

[佐]もう震災翌日からそういう風に、かなり明確な目的を持って写真を撮っているという人は、あまり私はお会いしたことない。

[三]いや、明確な目的意識というよりは、直感で、これは撮っておかないと残らないし、すぐになくなってしまう現象だなというのがあったんです。撮っている人もいないんじゃないかなと思って、どういう形で伝えるのか、誰に伝えるのかっていうのは全く見えてなかったんですけども、とりあえず撮っておかなきゃっていうぐらいの漠然とした直感だったんです。

[佐]生活ぶりを表す写真がすごく多いなというのを感じて、見せて頂いてそんなことを感じてました。次の写真もそういう写真になるんですね。

■夜明けとともに庭の七輪で調理をし、お湯を沸かし、暖を取った

夜明けとともに庭の七輪で調理をし、お湯を沸かし、暖を取った

2011年3月14日 仙台市太白区 自宅

[三]親父がもう亡くなってはいるんですが、家にいろいろ溜めこむ性格で、七輪もありましたし、バーベキュー用の炭が1箱あったので、3月12日の段階から炭をおこして炭火で料理をしていたんです。火を点けるときに家の中でやると煙くなってしまうので、夜明けとともに私が庭に出て、外で火を点けて、火がおきたら家の中に七輪ごと持っていくという、そういう役割が自然にできていて。

[佐]これ、かなり早かったですよね。時間を見たら。

[三]そうなんですよ、まさに昇ってきている太陽が、日の出の太陽なんです。やっぱり電気がないので、暗くなったら寝て、明るくなったら起きるという生活をしていて、朝はやはりご飯からスタートだろうというところで。こういう写真も撮っておかないと、こうだったんだよと言うよりは、例えば自分の子供ができた時には、お父さんこの庭でこんな朝から火をおこしてたんだね、っていうのをちゃんと説明できるかもなと思って。

[佐]時間見たら6時ちょっと前っていう。こんな早くから火おこしてたんだなと。

[三]3月14日くらいはまだまだ余震もあって満足に眠れなかったですし、なんかあったら困ると思っていたので、服も着たまま、靴も履いたままベッドの中で寝ていたので、明るくなると自然と目が覚めるような生活が1週間ぐらいは続いてました。

■震災直後、漂流物が大量に残る仙台東部道路名取インター付近

[三]実はですね、母親と一緒に生活していた親戚も高齢だったもので、仙台にいて食べ物がない生活で、ただニュースを見ている、音楽を聴いているだけでは不健康だろうと思って、だったらもういっそ山形に行こうと。ガソリンを一往復分確保して、親戚まるごと山形に行ったんですよ。で、忘れもしない48号線を、宮城県境を越えたあたりで、信号が点くようになるんですよね。「信号が点いてる」ってなって。山形市内に入ってコンビニを見たら人が並んでない。行く道道、まだ段差が激しくて、全然スピードを出せなくて、パンクしてしまったらもう終わり、車が故障したら終わりだと思って、すごく気を遣って車を運転して、物凄い緊張感が仙台にいたらあったんですけど、山形に入った瞬間に、ふっと気が抜けるような感覚があって。宿が取れたので、普通に温泉宿に泊って、その日の夜ごはんですき焼きが出たんですよ。3月17日ぐらいだったと思うんですけど。温泉に入ってすき焼きを食べて、テレビを見ながら、仙台の状況とか津波の状況を見ていて、私も何かしなきゃいけないと思って、山形でガソリンを補給して、山形は牛乳も卵も、仙台では買えないものが買えたので、そういうものを大量に買い込んで仙台までの往復を何回かしてたんです。

東部道路でせきとめられた瓦礫のあと

2011年3月21日 宮城県名取市閖上新猿猴


仙台もだいぶ落ち着いてきたので帰ろうということで、3月20日くらいに仙台に戻ってきて。閖上がすごく近かったので、一度これは見ておかなきゃと。私、閖上の方まで往復で走っていたりしたので、そのコースを改めて行ってみようというところで、一番最初に見てきたのがこの場所で。やっぱり東部自動車道が津波の進行を食い止めたという話は聞いていたんですけど逆に食い止めた悪影響というか、ここで、渦を巻いてしまって、車もぐちゃぐちゃになってしまったっていうような所だったんです。ちょうど画面右手奥の方、橋が架かっておりまして、その橋から先がやっぱり津波が流れて行っている様子なんかも顕著に見えていましたので、これは本当に大変なことだと思って。この後は東松島へ、ボランティアに行くようになって、そこから今は震災復興の仕事をしています。2年半になるんですが、今に至るという感じで、原点になるのかもしれないですね。

[佐]この写真の場所は撮影から1年後は、除塩作業中で作付ができなかったんです。今年は稲が植えられて、今はちょうど稲刈りシーズンで、この3年間でこれほど変化のある地域というのも、はっきり分かる地域というのも珍しいかもしれないです。農地が復旧した、復興した、言ってみればすごく分かりやすい写真かもしれません。ありがとうございました。

*この記事は、2013年10月5日にせんだいメディアテークの考えるテーブルで行われた 『3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクト公開サロン「みつづける、あの日からの風景」』で、三浦隆一さんがお話された内容を元に作成しています。当日の様子(考えるテーブル レポート)→http://table.smt.jp/?p=6738#report

【考えるテーブルとは】人が集い語り合いながら震災復興や地域社会、表現活動について考えていく場を「考えるテーブル」と題して、せんだいメディアテーク、7階スタジオに開きます。トークイベントや公開会議、市民団体の活動報告会など多様な催しを行っていきます。

 

センターについて

せんだいメディアテークでは、市民、専門家、スタッフが協働し、東日本大震災とその復旧・復興のプロセスを独自に発信、記録していくプラットフォームとして「3がつ11にちをわすれないためにセンター」(わすれン!)を開設しました。

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